
第217回 佐藤千佳子(73) アムステルダムで答え合わせ
「空、広いですね」と千佳子が言うと、
「ね? 首都とは思えないよね?」とすぐ隣から野間さんの声が返ってくる。
窓を向いたテーブルでお茶を飲みながら窓の外を眺めているそこは、アムステルダムの野間さんのアパートだ。
野間さんがスーパーマルフルのパートを卒業してアムステルダムに発ったのは、3年前の5月の終わり。野間さんがいるうちに訪ねたいと思っていて、文香の大学入試が終わる春休みに母娘二人旅行を計画した。
千佳子も文香も初めての海外。パスポートを作ったのも初めてだ。
オランダの黄金時代、17世紀に建設された3つの運河の内側に広がる古い街並みが世界遺産に登録されていて、野間さんが暮らすエリアはその中にある。
「日本でいうと、代々木公園の辺りって感じかな。年越しのときは、目の前に花火が上がるの。ここは特等席」
アパートの前に運河があって、空が大きいと野間さんが手紙に書いていたことを千佳子は思い出す。答え合わせをするように目の前に広がる風景を見渡す。
「間違い電話で鳥が鳴いてた公園って、どっちですか?」
「あー、あったねー。そんなこと」
野間さんが日本を離れて半年くらい経った頃、夜中に着信音が鳴って目を覚ましたら、アムステルダムの野間さんからだった。呼びかけても応答はなく、誤って通話ボタンを押してしまったようだった。野間さんの声の代わりに鳥の声が聞こえた。せっかくなので、つないだままにして、音の便りを聞くことにした。
夫との間にスマホを横たえ、遠い国の鳥のさえずりに耳を澄ませた。
夫とはベッドで体を交えることも言葉を交わすこともなく、普段は横に並んで睡眠しているだけだが、その夜は珍しく会話があった。

そんな出来事があったことをアムステルダムに来るまで忘れていたが、目を覚ます直前に見ていたのがパセリ先生の夢だったことをあわせて思い出し、千佳子は赤面する。手を取り合って見つめ合い、唇が触れそうになったところで、先に着信音で目を覚ました夫に起こされ、キスは未遂に終わった。
「フォンデルパークは、運河を渡った向こう側。建物に隠れてるけど、歩いて5分くらいかな? 今朝も彼と散歩してきた。後で行ってみる?」
千佳子は夢の中ですらときめきに逃げられ、恋愛対象としての賞味期限を自覚して久しいが、野間さんは年下の恋人ができ、恋愛を続行中だ。
千佳子と文香が到着したとき、玄関のドアを開けてくれたのがその恋人だった。
「うちに泊まったら?」の言葉に甘えさせてもらうことにしたのだが、スキポール空港まで、せめて最寄り駅まで迎えに来てくれると期待していたら、「住所わかってるよね?」と告げられた。つまり自力で来てということだ。「こっちじゃない?」と先を行く文香について行き、目指すアパートに無事辿り着けたものの、出迎えたのが野間さんではなく、部屋を間違えたのかと思った。
野間さんの恋人は左右に口を広げて口角を上げ、大きな笑顔を迎えてくれたが、彼が部屋にいることを想定していなかった千佳子は、笑顔の支度が追いつかず、あわわとなってしまった。シャワーを浴びたばかりというか、浴びている途中に出てきたのか、彼の髪は濡れていて、シャツは肌に張りついていた。
一方、文香は「ハーイ」と屈託のない声で挨拶した。野間さんにおつき合いしている人がいることは伝えていたものの、母親より年上の女性の部屋に恋人がいる現実に胸がざわついたりしないのだろうか。
野間さんの恋人がオランダ語で何か言い、どうぞと中へ案内するように長い腕を動かした。「キワコ」だけが聞き取れた。野間さんの下の名前。「話はキワコから聞いている。中で待ってて」といった内容だったのだろう。
彼は千佳子より少し上、千佳子の夫と同い年くらいに見えた。野間さんよりは十歳ほど年下だろうか。
「ポケットの中、あったかかったの人、ほんとにいたんだ」と思った。
チューリップの無料配布の長い列に並んだ冬の日、野間さんたちの前でチューリップが終わってしまい、「寒かったのに」と野間さんが悔しがったら、「ポケットの中はあったかかったね」と言った人。待っている間、凍える手を互いのコートのポケットに入れて温めていたらしい。
そんなノロケ話を聞いたのは、2年前の冬のことだ。デートに向かう前の野間さんはペディキュアを塗りながら通話していた。ペディキュアがはみ出しちゃったと言う声も弾んでいた。春を待ちきれない野間さんに、ひと足早い春が来ていた。
日本からはみ出し、これまでの生き方からどんどんはみ出していく野間さんが、ますます遠い人に思えた。

「お噂は聞いてますよ」と野間さんの恋人に言いたかったが、オランダ語はもちろん英語も出てこない。
「アイ ノー ユー」
I know you.
あなたのこと、知ってますよ。
そう言うのが精一杯だった。
すると野間さんの恋人が眉を大きく動かして反応した。伝わったのだろうか。早口のオランダ語で何か言われた。
「今知り合ったね、だって」と隣で文香が通訳した。
「ふーちゃん、オランダ語わかるの?」
「え? 英語だよ」
オランダ語に聞こえたのは、オランダ語訛りの英語だった。「後はごゆっくり」のようなことを言い残し、野間さんの恋人は部屋を去った。泊まっていたと思われるが、荷物は持っていない。着替えは野間さんの部屋に置いてあるのだろう。
別れ際に、野間さんと恋人は当たり前のようにキスを交わしていた。千佳子と文香がいることなど気にしていない様子だった。
野間さんが別な星の人のように見えるし、今いるここが別な星のように思える。
スーパーのパートのかつての同僚のキスを親子で目撃する機会など、なかなかない。文香の反応が気になったが、「オランダだね」の一言で受け入れていた。
「もしかして、わたしたちに気を遣って、急いで出てくれたのかな? 髪、濡れたままでしたよね?」
「いつも風で乾かしてるから」
「風かぁ」
千佳子がしみじみと感心したので、野間さんが「何?」となる。
「自然体だなと思って」
「そうかな。そうかも。ふふっ」
野間さんの笑い方が日本にいたときより柔らかくなっている気がする。わたしは逆だなと千佳子は思う。肩の力が入って、笑おうとすると、ぎこちなくなる。
文香はさっきから色鉛筆を走らせている。本棚に立ててある水彩色鉛筆の箱を見つけると、「描きたい!」と目を輝かせた。
「描いて描いて! 彼にプレゼントされたんだけど、なかなか時間がなくて。色鉛筆も喜ぶよ」
野間さんの言葉の端々に彼が現れる。千佳子の言葉の端々に文香が現れるのと同じかもしれない。愛し愛され、必要とし必要とされている人が、野間さんの場合は恋人で、千佳子の場合は娘だ。

千佳子と野間さんがお茶をお代わりする間に文香の手は色を持ち替えて白い紙を行き来し、初めて見る異国の街並みが現れていった。空の色も建物の色も現実より明るく、それが文香の心持ちを表しているようで、アムステルダムに来て良かったと千佳子は思う。
自分の中に風の通り道ができ、凝り固まっていたものがほぐれていく感覚がある。
「そう言えば、オランダって風車の国だった」
千佳子は思い出し、言葉がそのまま口から出る。
「風車見に行く? 近くにもあるけど、風車がいっぱい並んでるところがあるよ。キンデルダイク。そこも世界遺産になってる」
「いいですね、風車」
「ロッテルダムの近くから水上バスが出てる。ロッテルダムはアムステルダムから電車で40分くらいだから、日帰りで行けるよ」
キンデルダイク。ロッテルダム。日本にない地名。日本にない行き先。日本とは違う時間が流れている。日本に置いてきた現実が嘘で、本当の人生はこちら側にあるのではと錯覚しそうになる。そう信じたくなる。
わたしの人生も、文香の人生も。
高校の卒業式が終わったら、オランダに行く。予定通りの春休み。だが、その先、4月から大学生になる予定が変わった。
どこに決まるかはわからないけれど、どこかには決まると思っていた。
まさか、どこにも決まらないなんて、思っていなかった。

次回3月21日に佐藤千佳子(74)を公開予定です。
編集部note:https://note.com/saita_media
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