第3回 伊澤直美(1) 給料日にモヤモヤする理由
「俺、今日在宅だから」とイザオが言ったので、直美は会社に行くことにした。そのほうが、仕事がはかどる。イザオの家事もはかどる。
夫が在宅だと家事に時間を取られると嘆くワーキング女性の声をよく聞くが、直美夫婦は逆だ。直美は洗い物や洗濯物が溜まっても平気だが、イザオはそれが許せなくて、どんどん片付ける。
家事は「気づいたほうがやる」ことになっているが、多分イザオのほうがやっているし、家事能力はイザオのほうが断然高い。歯を磨くような手軽さで水周りにササッとブラシをかけるから、イザオが家にいるほど部屋がきれいになる。しかも、「俺がやっといてやった」なんて恩着せがましいことを言わず、当たり前のようにやってくれる。
家の中では男女平等。でも、職場では違う。
食品メーカーに同期入社したイザオと結婚して、男女社員の給料に開きがあることを知った。給料日になると、「今日、どっか食べに行っちゃう?」なんて浮かれて、ちょっといい店に出かけたりしていたけれど、その重みに一割ほど差があると知ってからは、同じように喜べなくなった。
腹いせにイザオ名義のクレジットカードの家族カードで給料の差額分を散財しても、スッキリはしない。お金の問題じゃない。この数万円の差の根拠は何なのとハッキリさせたくなる。
直美の直は一直線のチョク。ソフトボール部だった中学校時代についたあだ名は「チョッキー」。大学時代までそのあだ名で通ってきたが、就職して、新しいあだ名ができた。
その年の新卒入社は男5、女4の9名。研修を受けるうちに、フルネームの頭ふた文字と最後のひと文字を組み合わせて呼び合うようになった。田沼深雪はタヌキ。的場始はマトメ、柴田五月はシバキ。のちに夫となった伊澤孝雄はイザオ。旧姓が原口の直美はハラミだねと話したとき、ちょうど焼肉屋で飲んでいて、誰かがハラミを注文した。
イザオとは4年前、30歳のとき、入社8年目で結婚した。以前は新婚旅行から帰ると、新しい名字の名刺が刷り上がっていたらしいが、直美が入社した年から選べるようになった。直美は旧姓を使い続けることを選んだ。
「名前変えたらハラミじゃなくなるから」
イザオにはそう言ったが、変える必要を1ミリも感じていなかった。旧姓を諦めた先輩に「あちらのご両親、よく許してくれたね」と言われ、許可が必要だったのかと驚いた。もちろん相談も報告もしていない。
入社1年目から一緒に暮らしているし、今も「イザオ」「ハラミ」と呼び合っている。結婚してからの変化といえば、銀行や病院で「伊澤さん」と呼ばれるようになったことと、「伊澤直美」あての郵便物が増えたことくらいだった。
結婚してからの一番大きな変化は、去年引っ越したこと。築20年の中古マンションを分譲時の半値で購入して、リフォームした。ペラペラの合板フローリングの上に無垢材の床を貼った。壁紙や照明はインテリア系アプリやインスタで目に留まった部屋の主に「どこで買えますか?」と問い合わせ、同じものを手に入れた。東横線の目黒駅から徒歩8分。通勤時間は半分になり、床面積は倍になった。共働きだからできた買い物だ。
昼休みにデスクのある企画部から廊下に出たところで、「ハラミちゃん」とイザオの上司の堀池さんに呼び止められた。同期ネームが社内での通称になっている。堀池さんは、直美夫婦の結婚披露宴の乾杯の音頭をお願いしたら、自身の結婚式を思い出して感極まって号泣した愛すべき55歳のオジサマだ。つられてイザオも号泣したので、目が充血した写真ばかりになった。
「イザオ、ミュートにするの忘れて、掃除機かけてたよ」
「ええっ。会議中に何やってるんですか!」
「別に出なくてもいいやつだったんだけど、掃除機の音がうるさくて。ミュートにしてくれって呼びかけても、聞こえてないし」
「すみません」
「いや、和ませてもらったよ」
直美は企画部で商品開発を、イザオは通販部でシステム開発を手がけている。仕事で絡むことはないが、全社員合わせて2百人足らずの会社だから、お互いの動きは筒抜けだ。
会社の業績が安定しているからか、社内の雰囲気は大らかで余裕がある。社内恋愛、社内結婚にも寛容で、あっという間に情報共有される。リモート会議の背景の棚が同じだという理由で、3組の同棲が新たに確認されたばかりだ。これで給料に男女格差がなければ、満点なんだけど。
午後8時。帰宅してドアを開けると、いい匂いが室内に立ち込めていた。チーズが焦げる匂いにシーフードの香りが混ざっている。
「シーフードグラタン?」
「惜しい。カリフラワーのチーズ焼きとボンゴレ」
パスタをフライパンから皿に取り分けながら、イザオが答えた。
「なんで、わたしが帰る時間わかったの?」
「さっき、なんか買って帰るものあるって電話くれたから。そっから5分待ってパスタゆで始めた」
場当たり的に直感で動く直美と違い、イザオは計画的で合理的だ。冷蔵庫にあるもので何品も作ってしまうし、スーパーでの買い物にも無駄がない。イザオに言わせると、「家事能力は管理能力」らしい。タスク管理。時間管理。在庫管理。なるほど。どれも直美には欠けている。
「ニース風サラダ風も作っちゃった」
「ニース風サラダじゃなくて?」
「ニース風サラダっぽいやつ。ゆで卵と、あと、適当に野菜ぶっ込んだ」
「すごい豪華なんだけど。なんのお祝い?」
「とくにないけど。あ、今日、給料日か」
スパークリングワインの栓を開けると、ポンッと景気のいい音がした。「給料日に乾杯」とグラスを合わせた。仕事から帰ったら、冷えたワインとできたての夕食が待っているなんて、最高じゃないか。夫婦で稼いで夫婦で使うんだから、給料の数万円の差なんて別にいっかという気持ちになった。
家のことは助け合って、休みの日には一緒に出かけて。こんな感じで定年まで行っちゃうのかもしれない。60歳になった自分はまだ想像できないけど、少なくとも5年先、39歳の自分は今と同じ生活をしている気がする。イザオも同じように考えていると思っていたのだが、1本目のワインが空いて、「次どうする?」と聞いたら、思いがけない返事が返ってきた。
「子どもどうする?」
次の物語、連載小説『漂うわたし』第4回 伊澤直美(2)「どっちが産むか選べたらいいのに」へ。
イラスト:ジョンジー敦子
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