飛び込み営業に意味はあるのか?
効率重視・コスパ重視の昨今、「これって意味あんのかな?」と自問自答する人は多いだろう。
事実、世の中にはHowTo記事がはびこり「効率化して無駄をなくそう、賢く生きよう」というメッセージで溢れている。
かくいう私も、経験もなければ実力もない新卒時代から「やる意味」を常に考えていた。
「これ、私がやる意味ある?」
としょっちゅう首を傾げては手を止める。
タイムマシンがあったら今すぐ飛び乗り、当時の私の頭をパコーンと叩きたいが、まだ開発されていないからできない。
求人広告の営業だった新卒時代、最大の「意味ある?」は飛び込み営業だった。
文字通りその辺のビルに飛び込んでは「求人広告はいらんかね!」と物申すのだが、迷惑な虫かただの空気みたいに扱われる。まだピチピチのうら若きレディーだった私は、毛量控えめツヤ感多めのオジサンにフルシカトされ、自尊心を根こそぎ持っていかれる気がした。
「なんでデジタル時代にこんな古臭い体当たり営業しなきゃいけないんだ、アポなし突撃訪問なんて非効率すぎるしそもそも迷惑じゃん!」
と半泣きでド正論を叫びたかったが、今思えばメンタル強化のための通過儀礼でしかなかった。そう言ってほしかったが、まあ身も蓋もないので言わなかったのだろう。確かに、言われたところでやる気は出なかったと思う。
だから私は「飛び込み営業なんてやる意味はない」と判断し、渋谷のセンター街の漫画喫茶でサボり倒していた。すると上司から電話がかかってきて「…今、どこいるの?」とめっちゃ疑われた。バレてる!
脈なしのデートに意味はあるのか?
その後、二十代中盤を迎えた私は婚活に燃えた。マッチングアプリではいくらでも相手を見つけられるため「婚活も効率化せねば婚期を逃す」と危機感を持ち、めぼしい男性を見つけてはデートに繰り出し、かるた大会のように「脈あり!」「脈なし!」と素早く手札を切っていった。
ある日、のんびりした雰囲気の男性がふらりと現れた。つかみどころがなく、脈があるんだかないんだかわからない。やきもきして
「どんな人を探しているの?」
と剛速球で切り込むと、仏のように穏やかな顔でこう言った。
「別に決めてないよ。気が合えば友達でいいし、お酒が好きなら飲み仲間でいいし、お互いにいいなと思えば恋人でいいし。最初から目的を決めちゃうと、いろんな人と会うのがつまんなくなっちゃうじゃん」
ずがーんと雷に打たれたような衝撃が走り、なんかすごく、自分がしょうもなく思えた。
確かに私のほうが効率はいいかもしれない。早く恋人を見つけられるかもしれない。でも、彼のほうが目の前の人とのデートを楽しみ、豊かな人間関係を築けるだろう。
当時の私には、脈なしのデートに意味はなかった。しかし、彼にとっては意味がある。
効率化を追い求めるあまり、そこにあったはずの「意味」を失っていたのだ。
「やる意味を探す」のが無意味だった
人生は有限だ。そのなかで少しでも多くの目標を達成するには、効率化したり、やる意味を考えたりすることも必要だろう。
でも、それらを考えるのはいったんトライしてからでもいいのでは、とも思う。
効率や意味ばかり考えていると、人と会っても「私の平凡な話をする意味あるのかなあ」、新しい仕事を任されても「私が担当する意味あるのかなあ」、お風呂に入るにも「明日だれにも会わないのに入る意味あるのかなあ」(それはあるだろ)というように、いちいち立ち止まってしまう。
神様でもあるまいし、やる前から「やる意味」なんてわかるはずがない。やってみて初めて「やる意味」がわかるのであって、事前にあれこれ考えても「やっぱやめとこ」と行動力が落ちるだけだ。やっぱやめといたせいで、知らないまま手のひらからこぼれていった「やる意味」は無数にあるだろう。それこそ無意味だ。
軽率に無計画に、ただの出来心でやってみようじゃないか。いったんやってみてから意味を見つければいいのだ。
「やる意味あるのかな?」と思ったら、「やる意味を探してみよう」と言い換えて、人生の寄り道を楽しんでみよう。その寄り道は遠回りのようで、意外と近道かもしれない。
死ぬ間際、多くの人が「やっておけばよかった」と言うらしい。一見無意味な行動だったとしても、この後悔を防げるだけでじゅうぶんお釣りがくるはずだ。