40代は人生の「踊り場」のようです。
物心ついてから、勉強や部活、就職、結婚や育児とずーっと駆け上がってきて、我に返ってみると次の一歩をどこに踏み出せばいいか迷ってしまうような。
ぼくは「このまま歩いて行こう」と思ったり「新しいことをはじめよう」と意気込んでみたり「なんだかこれから先、惰性みたいになりそう」と思うこともある。
それって、この先に「与えられた目標」がなくなったから、とまどってしまっているのかもなぁなんて考えたりします。
受験があって、就活があって、育児に追われてって。好むと好まざるとにかかわらず、これまではずっと目標がありました。そうやって登り続けてきた人生の階段。
育児やキャリアがひと段落したら、もう社会的な目標を誰かが与えてくれることはありません。
でも、「子育て」って40代からの人生を生きていくための「自分」を形作る役割をすごく担ってくれています。
それなのに子育てを通して、これから先の人生を誰かのためじゃなく自分のために歩んでいく「自分」がこんなにも作られているってことに気がついていなかった。
「子どもへの教え」はこれまでの自分の振り返り
わが家では娘がSwitchをやってもいい時間が決まっています。
子どもがSwitchをやっていたりYou Tubeを見ている時間って、親にとってはのんびり自分のやりたいことができる貴重な時間だったりもします。
とくに最近では、学校がテレラーンになり、日中仕事をしながら相手をすることも増えました。
なので、どうしてもSwitchをやってもらって時間を確保することも。
すると。
「ねえ、最近Switchの時間長くなってるけどいいの?」
と娘が言ってくるんです。
もともと娘が長くやりすぎないようにと定めた時間のはずなのに、それをダラダラと延長OKにしてルールもあいまいなままに「やっていいよ」とか「もうお終い」とか言っていた。
そのことに気が付き、自己申告してきた娘。
「決めたことは、ちゃんと守るようにしないとダメだよ」
って、娘には言い続けているのに。それを曖昧にしてしまっている自分に気が付きました。
「先延ばししてないで宿題やりなさい」
「困っている人がいたら助けてあげてね」
「人を傷つけるようなことしちゃダメだよ」
「辛いときは、ちゃんと『辛い』って言わなきゃわからないよ」
子どもに向けて放つ「教え」は、これまでの自分が育んできた大切な価値観の現れです。
そしてある意味では「理想論」だったりすることもありますよね。
だけど、子どもに教えたいことって自分がものすごく大切にしていることそのもの。
だから、それを言うときは自分にも言い聞かせているのです。
人は教えてもらうときよりも、人に教えることで学びが深まると言います。
子どもへの教えは、子ども向けの教えなんかじゃありません。
伝えたことを一緒に大事にしていくことが、何よりも子どもへのメッセージになるし、自分に改めて言い聞かせる機会にもなる。
一石二鳥でおいしいのが「子どもへの教え」です。
「子どもに教えられる」人生の歩き方
この記事を書いている今日。東京でも久しぶりに雪が積もりました。
外に出て一心不乱に雪で遊ぶ娘。冷たいとか、泥だらけで汚いとか、そんなの一切お構いなし。
子どもって「これが将来なんの役に立つか」なんて関係なく「楽しいものは楽しい!」って感覚で毎日を暮らしているところがありませんか。
けん玉に夢中になったり、虫にハマったり、電車大好きな子だってたくさんいる。
それを見て「けん玉の先生になるわけじゃなし。いつまでも虫遊びしててもしかたないし。電車もいいけど将来役に立つことも勉強してもらいたいし」なんて、「大人」なことで心配してみたり。
でも、社会学の言葉でこういう言葉があります。
「コンサマトリー」。
アメリカの社会学者タルコット・パーソンズによる造語で、「それ自体を目的とした」「自己充足的」を意味する言葉。
「サッカー選手になる」ためではなくて「サッカーが楽しい」からやる。
「いい学校にいく」ためじゃなく「学ぶことが楽しい」から勉強する。
コンサマトリーな状態に入ると、時間を忘れて夢中になります。「未来」のために「今」を犠牲にするのではなく、おもむくままに「今」を「楽しむ」。
子どもの頃はみんなコンサマトリーな感性を持っているのに、いつからか失くしてしまう感覚。
ぼくは子どもが何かに夢中になっている姿を見ると、すごく見習いたいなって思うんです。
もう登らされる階段は終わったから、コンサマトリーな感性を取り戻す
「子どもに教えること」を自分にも、アップデートし直す。
「子どもから教えられること」を自分に再インストールする。
子育てって、本当に「自分」の大切にするべきことを形作ってくれる。
登るのに必死だった階段は、自分で歩く道を選べる踊り場へとつながっていたのかもしれません。
この踊り場を楽しむために、これからはコンサマトリーな感性をもう一度、取り戻したいと思うのです。