子どもの人生を切り開く力を信じる
わが家は2度の教育移住をしています。
最初は、幼稚園環境を変えるために東京から京都へと移住。
その後、娘が小学生になるタイミングで東京の学校へ通わせるため、また戻ってきました。
さぞかし教育熱心な親かと思われるかもしれませんが、半分以上「自分たちが楽しい挑戦をできそうだから」が理由です。
言い方は悪いですが、子どもの教育をダシに親も普段ならしないようなチャレンジをしたようなものです。
とは言え、移住先の軸にあったのは娘の通う幼稚園と学校です。
順番としては、「移住した先で良い学校を探す」ではなくて「通わせたい学校を目掛けて移住する」でした。
その際の学校選びで、ぼくたち親が大切にしていたこと。
それは「子ども一人ひとりの持っている力を信じてくれる学校」ということでした。
「信じている」とは、ある程度自由に挑戦させてくれることです。
子どもの未来にレールを敷くのではなく、野原を走り回る走り方を学べる場所。それがテーマでした。
子どもの人生と自分の人生を重ねない
ぼくは子どもの頃、父親から「野球選手になれ」と言われていました。
どこまで本気だったかはわからないし、昭和の親父なんてみんな同じようなことを言ってそうですが(苦笑)。
とにかくそれが嫌だった。
なぜなら、野球が好きじゃなかったし、上手くなかったし、天地がひっくり返ったって野球選手になれるとは思えなかったから。
そしたら次は「東大へ行け」と。
「いやいや、あんたの息子の成績をちゃんと見たことはあるのかい?」
そう言いたい気持ちでいっぱいになる。
あれは、父親なりの不器用なコミュニケーションだったのだろうなと、いまでは思いますが。
ときおり、自分で叶えられなかった夢を子どもに託す親の姿を目にします。
「自分は〇〇になれなかった。だから子どもには〇〇になってほしい」
うまい具合に、子どもの夢と自分の叶わなかった夢が重なり合ったのなら、それはとてもラッキーかもしれません。
でも、子どもの人生と親の人生はまったく別物だと思うのです。
それは、何も同じ夢だけに限ったことではないかもしれません。
子どもは、親の「作品」じゃない
子どもには幸せになって欲しい。
そう思います。でも、その幸せの形は子どもが自分自身で見つけていくことです。
親の思う「幸せ」の形に当てはめることが、果たして正解なのか。親として自制していかなくてはと思うのです。
かつては「年頃になったら結婚して子どもを生むのが幸せだ」と言われた時代もありました。
でも今は、それを幸せの絶対条件として考えている若者はあまりいないのではないでしょうか。
「いい大学に入って、大きな企業に就職すること」も、同じように幸せの絶対条件ではなくなりました。
それにも関わらず、親は自分の人生と子どもの人生を重ね合わせ、幸せのレールの上を歩かせようとしてしまう。
だから、娘の教育環境を変えようと思った時、わが家は娘の教育だけを目的にするのはやめようと考えました。
「子どものために」だけを考えてしまうと、もしも移住先の幼稚園に馴染めなかったとき。学校に通いたくなくなったとき。
「君のために移住までしたのに」と思ってしまい兼ねません。最悪なのは、それを本人にポロリと言ってしまうなどの事故があったとき。
そんなのは、子ども本人にしてみれば「知ったこっちゃない!」って話です。
また、せっかく自然豊かな環境に移住したのに、全然自然を好きにならずに家でYouTubeを見てるほうがずっと好きって可能性だってある。
それだって、親が勝手に思う「道筋」に沿わなかっただけで、個人の好き嫌いの話でしかない。
なのに、「こんなに環境を整えてるのに。これならわざわざ移住なんかしなくても同じじゃないか」って思ってしまうかもしれない。
「子どものために自分の人生を犠牲にして尽くす」のではなくて。
「子どもをキッカケに、自分たちの世界をどんどん広げていく」。
やっぱり、親が自分の人生をしっかり楽しめていることって、大切な育児だと思うのです。
子ども自身の成功や失敗は、本人が噛み締めて喜んだり悔しがったりして成長していく。
親が過剰に、子どもの失敗を悔しがって、水を差す必要はないと思うのです。
また、あたかも子どもの成功を、親としての自分の成功のように感じなくてもいいと思うのです。
子どもの人生を生きるより。
お互いが自分の人生を全力で楽しみ合っている。
そのほうが、楽しいんじゃないかなって思うのです。