人の庭を見ている間に、自分の花を見逃していない?
「隣の芝生は青く見える」ということわざがある。
私は昔から、このことわざを聞くたびに少し違うことを考える。
隣の家の庭に見とれている間に、自分の庭に咲いている花を見逃してしまったらいやだなぁ、と。
「あの人はいいな」
「うらやましいな」
そんなふうに、人の庭を眺めている時間は意外と長い。
SNSを開けば、誰かの幸せそうな日常が流れてくる。
仕事で活躍する人、楽しそうに旅行をする人、仲睦まじい家族の写真。
気づけば、自分の人生よりも誰かの人生を見ている時間のほうが長くなっているという人も少なくないのではないだろうか。
もちろん、人の人生を見て刺激を受けたり、憧れを抱いたりすることは悪いことではない。
でも、その視線はいつしか比較に変わり、「私はまだ足りない」「私には何もない」と、自分を小さくする材料になってしまう。
もし、誰かと比べることで自分を嫌いになる時間があるなら、その時間は少しずつ減らしていきたい。
「何もない」と思っている庭にも、ちゃんと花は咲いている
もし毎日、隣の庭ばかり眺めていたらどうだろう。
自分の庭にきれいな花が咲いていても気づけない。その花に、美しい蝶がとまっていたことも、新しい芽が出てきたことも見逃してしまう。
毎日少しずつ育っている木の変化にも気づけない。
自分の庭に起こっている美しい出来事に気づけないだけではなく、挙句の果てに「私の庭には何もない」と思い込んでしまう。
「自分の庭には、何もない。価値がない」。
そう思い込んでいる人は多い。でも、本当にそうなのだろうか。
人は、自分にとって当たり前になっているものほど、その価値に気づけない。
毎日ご飯を作っていること。
仕事を続けていること。
誰かの話を最後まで聞けること。
苦しい時期を乗り越えてきたこと。
今日もこうして生きていること。
それらはすべて、自分の庭に咲いている花だ。
もしかしたら、その花は小ぶりかもしれない。誰かに褒められるような派手さはないかもしれない。
それでも、その花は確かにそこにある。
そして、もしかしたらあなたの隣人は、その庭を見て「いいな」と思っているかもしれない。
幸せは遠くにはない。自分の庭に気づくことから始まる
人は、自分が持っているものより、持っていないものばかりを数えてしまう。
だから、幸せは遠くにあるように感じる。
でも本当は、幸せは探しに行くものではなく、気づくものなのだ。
私は最近、「今を生きる」ということをよく考える。
未来への不安に心を奪われ、まだ起きてもいない出来事に怯える。
誰かの人生を見て、自分の足りなさばかりを探す。
そうしているうちに、「今日」というかけがえのない一日が過ぎていく。
人生は、今日の積み重ねだ。
今日笑えたこと。
今日誰かと交わした言葉。
今日感じた風の心地よさ。
そんなひとつひとつが、自分の庭を少しずつ豊かにしていく。
だから、自分の人生から一瞬たりとも目をそらしたくない。
誰かの庭を眺める時間よりも、自分の庭に水をやる時間を大切にしたい。
どんな花が咲いているのか。
どんな芽が育っているのか。
その変化に気づけるのは、自分だけだからだ。
きっとこれからも、隣の芝生が青く見える日はある。
でも、その景色に心を奪われている間にも、自分の庭には、他の誰にも咲かせることのできない花が、静かに咲いている。
その花に気づける人生は、きっと幸せだ。



