見守ると放置の違いは、「責任の持ち方」
「放置」<「見守る」<「過干渉」というように親の介入レベルによって、その呼び名が変わります。 この介入レベルは「責任の持ち方」でもあると思うのです。 つまり、声をかけるとかかけないという表面的な違いではなく、親が子どもに対しての責任をどう捉えているかの現れでもあるのです。
放置とは、子どもには重たすぎる責任まで子どもに委ねてしまう状態のことです。 子どもでは解決できない問題が起こっても、介入せずに、子どもに責任を取らせようとしてしまう。 たとえば、その子にはまだ明らかにできないような遊具なのに、親のサポートもなく遊ばせてしまうとか。
過干渉とは、子どもの失敗の責任を親が強く感じすぎてしまう状態で起こりやすいです。そのせいで、失敗しないように親がどんどん先回りしてしまうこと。 たとえば、「君の好きにしていいんだよ」と言いつつも、子どもが選んだ選択に対して「それはダメ、そうじゃない」とつい細々と口を出してしまうとか。
では、見守るとはどうでしょうか。 それは「子どもがどの程度の責任を自分で取ることができるかを、親が観察しながら介入すること」だと思っています。
ちょっと難しいですか? ここでのポイントは「観察」になります。
子どもを観察するのが大人の役割
放置とは、子どもが自分で責任を取れない範囲まで介入をしないこと。 過干渉とは、子どもが自分で取れる責任までも先回りして介入してしまうこと。
では、子どもが自分でどの程度の「責任」を取れるかは、どう見極めるのでしょうか?
そのために「観察」することが大切なのです。
観察とは、ただ眺めていることではなく「材料集め」です。 子どもがどこまで自分で責任を取れるか、どこまで自分でできるかを見極めるための材料です。
責任を取るといっても、大人のように何かを保証するとかそういう話ではありません。
- 転んだとき、自分の力で立ち上がってまた走り出すことができるか。
- 遊具で遊んでいるとき、その遊具を使いこなす身体能力が身についているかどうか。
- 困っているとき、自分で解決策を考えて行動することができるかどうか。
こうしたことが、「責任」です。 年齢が上がってもこれは同じです。
- 宿題を忘れた責任を、自分で取ることができるか?
- 新しいところに出かけたとき、親がいなくても大丈夫かどうか?
成長するほどに、その責任(自分でどうにかできること)の範囲は広がっていきます。
その子がどこまで自分でできるかは、もちろんやってみないとわからないこともたくさんあるでしょう。ですが、普段からその子の「行動・言葉・表情」などをよく見ていたり、その時々で子どもがどんなことを考え、感じていたのかを聞いてみたりすると、「この子はこのくらいならできそうだ」という予想ができます。
それが、観察によって得られる材料です。あとは、その材料を照らし合わせながら、子どもにどの程度の挑戦や失敗だったらさせても大丈夫かを判断していきます。
見守るとは
見守るとは、子どもにちゃんと失敗をさせてあげられることなんだと思うんです。 だけど、大きすぎる失敗は子どもにとっても親にとっても大変なことになってしまうかもしれません。 また、失敗しないようにと先回りし過ぎれば、それは過干渉となってしまうでしょう。
観察が大切なのは、この取れる責任の大きさは、個人差が大きいからです。 「○歳だったらこのくらい」と言うよりも、「この子はこのくらい」と考えてください。
見守るとは、きっとそういう子どもとの関わり方なのだと思うのです。



