「わたし、大人になったら赤ちゃんが欲しいの!」
6歳の娘は、手を繋ぐぼくを見上げながらキラキラした眼差しで宣言した。
ついこの前は「赤ちゃん産むのって鼻からスイカ出すくらい痛いんだから!わたし絶対産まない!」って息巻いていたのに。
娘が言う赤ちゃんを「産む・産まない」。
ぼくはこの何気ない会話に、いつもほんの少し戸惑います。
「女の子なんだから。将来は結婚をして子どもを産むことが幸せなんだよ」
そんな価値観ははるか昭和の彼方。
今の時代はもちろん、娘が大人になるころには真剣にそう信じている人なんていないかもしれません。
「君が大きくなって、子どもを産んでくれたら嬉しいなぁ」
「いつか孫を見られることを楽しみにしてるよ」
なんて言葉を軽々しく口にする気持ちには、どうしてもなれないのです。
娘が異性を好きになるなんて、誰が決める?
娘が将来子どもを産みたいと思うなんて誰にわかる?
娘が子どもを授かることができるなんてどうしてわかる?
「子どもを産む」というのは、数え切れないほどに枝分かれした人生の道程のひとつに過ぎません。
ぼくは、その道筋のひとつに「是」と言い切ってしまうことに抵抗を覚えたのです。
娘のいまの気持ちを尊重する
だけど、いまの娘に「君が将来子どもを産むかどうかはまだわからない」なんて真面目に語り始めてもキョトンです。そんな小難しい話をするつもりなんてちっともない娘にしてみれば、傍迷惑もはなはだしいでしょう(笑)
だから、「産みたい!」の気持ちも「産みたくない!」の気持ちも尊重したいと思うのです。
「なんで、産みたいと思ったの?」
「鼻からスイカはやばいくらい痛そうだね。ママに聞いてみたらどっちが痛いか教えてくれるんじゃない?」
話を膨らませてあげると、身振り手振りでそう思った気持ちを熱弁してくれる。
その気持は大切にしてあげたいなと思うのです。
親の「理想」という「呪縛」
子どもの有無に限らず、学んで欲しいこと、身につけて欲しいこと、歩んで欲しい人生。あらゆる親の「理想」がいとせず「呪縛」となってしまうことがあると思うのです。
もちろん、この「理想」と「呪縛」を全部切り分けて子育てをすることなんてできない。
だけど、ひとつ分ける軸にするとしたらそれは「親の理想以外の選択肢に罪悪感を感じるかどうか」なんじゃないかなと思うのです。
たとえば「もういい年なのに、まだ結婚しないの?」「子どもはまだなの?」「ちゃんとした会社に就職してよ」「これからの時代、もう日本じゃなくて海外に出なくちゃダメ」「彼氏できた?」などなど。
こうした理想を教育として言い続けていると、そうしなかった時に子どもは親に対して罪悪感を感じてしまうかもしれない。ぼくは、それは嫌だなと思うのです。
ぼく自身、キャリアの初期ですぐにフリーランスになったとき、親にずいぶんとガッカリされました。子ども時代に、習い事を辞めたり、学校へ行くのを拒んだりしたときも同じでした。
子どもって思っているよりも強く、親がどんな価値観を持っていようとも自分の信じた道へ踏み出すことができます。
だけど、親の理想と違う道を選択するたびに「人生に失敗しているのではないか」と不安になり、「ほらみろ」と言われる恐怖を感じれば、親との距離はどんどん開いてしまう。
ぼくは、親として子どもの人生にレールを敷いてあげたいとは思わないのです。
それよりは、ブースターのような存在になっていたい。
どんな道であっても、「全力で行け!」と背中を押してあげたい。
娘が「面白い!」と思う選択肢を応援する
親であれば、子どもに学んで欲しいことや身につけて欲しいことも色々あります。
だけど、ぼくは親が思う最高の環境にこだわるよりも、娘が「面白い!」と思う気持ちを置き去りにしないようにしたい。
親や世間の理想に囚われる必要なんてない。本人が心から幸せになってくれたら。
それが、ぼくがたったひとつ娘に望んでいることなのかもしれません。