「育児の楽しさを男性にももっと知ってもらいたい!」
育児雑誌を見ていても、男の育児メディアを見ていても、そんな趣旨の企画で溢れているなと思います。
「育児の楽しさ、かぁ」とそんな企画に違和感を感じることってありませんか。
ぼくはひねくれ者なのか、そうした趣旨の企画を目にする度になんだか虚しさすら感じることがあるのです。
「育児経験は仕事のスキルアップに繋がる!」
「育児でコミュニケーション能力アップ!」
「育児が自分自身の成長に繋がる!」
たしかにね。そうかもしれない。だけど、メリットがないと育児ってできないものなんだろうか。
「育児」は楽しくも、辛くもない
ぼくの周りには、育児をものすごく楽しんでいる人もいれば、辛く苦しい中でがんばっている人もいます。
同じ育児なはずなのに、人によって育児の捉え方は全然違います。
ぼく自身は育児をとても楽しんでいます。
育児を通して、働き方が変わり、価値観が変わり、暮らす場所も変わり、人生において大切にしたいことも変わってきました。面倒くさいことも、シンドいことも山程あるけど、ぼくにとって子どもが生まれたことは新しい自分との出会いであり、幸せそのものと感じています。
でもそれは、ぼくが独りで育児に奮闘しているのではなくて、妻と一緒になってやってきているからに他なりません。
もう少し正確に言うのなら。
育児の大変さを妻と半分に分かち合うことで、ぼくの中に育児を楽しむための「ゆとり」があるから育児を楽しむことができている。
育児には「楽しい」も「辛い」も両方あります。
そのどちらに天秤が傾くのかは、傾いた瞬間の判断じゃなくて、どちらに傾いている時間が長いかで印象付けられるように思うのです。
それを左右する一番の要になるのが「親のゆとり」。
子育てを独りでなく、誰かとのコミットメントの中ですることができれば、そのことで生まれたゆとりの中に子どもへの愛おしさが詰め込まれていく。
親自身にゆとりがなければ、子育ての「楽しい」が入ってくるスペースがない。
気持ちのゆとり、時間のゆとり、身体のゆとり。
「育児の楽しさ」なんてことをことさらに教えてもらわなくても、親の中にゆとりがあれば楽しさは自分で見つけていくことができるんじゃないかなと思うのです。
孤独は親から「ゆとり」を奪っていく
育児が大変な理由は、人それぞれたくさんあります。その中でも「親の孤立」はえげつない程にゆとりの気持ちを奪っていきます。
パートナーが育児に対して無関心。
無関心とまでは言わないが、実質的な戦力にならない。
育児を支え合える社会的な繋がりがない。
社会的な繋がりとは、たとえば親戚、友人、自治体のサポート、シッターや家事代行など頼れるサービスなどなど。
そういったサポートに頼れない状況や、上手に頼る方法がわからない場合など。
育児をしている親は、どんどん孤立していきます。
それがいわゆる「孤育て」という状態。
気持ちも、身体も、時間もゆとりがなくなり、育児を楽しいと思う気持ちが入ってくる余白がなくなってしまう。
非常に厳しい言い方になりますが。
もしも父親が育児をしていなかったとしたなら。それは母親からゆとりを奪い、育児を楽しんだり、子どもを愛おしく思う気持ちを奪っていることと言えるかもしれません。
育児の楽しさは、「支え合い」から生まれる
子どもへの関わりが深い人のゆとりほど、奪ってはいけません。
なぜなら、子どもへ直接の影響が及んでしまうから。
母親が一番子どもと関わっているのなら、父親は母親のゆとりをつくることを忘れてはいけない。育児の最大の目的は、自分の成長でも楽しみでもなくて子どもを安心安全の中で育てることです。
そのためのガソリンとなるのが、ゆとりで、ゆとりがたくさんあるほどに育児は楽しく愛おしいものになっていくのです。
ゆとりがなければ、育児は辛く苦しい責務になってしまうかもしれません。
育児は、「支え合い」が広がるほど楽しくなると思うのです。