世間の熱に溶かされたチョコレート
かつては、バレンタイン直前のデパート催事に溢れるこの熱気に浮かされるのが好きだった。けれど、少し前から違和感を感じるようになった。整理券配布を案内するスタッフの焦燥や、ブランドを入れ替えて訪れる客の熱量を繋ぎとめようとする店側の熱に、主役であるはずのチョコレートがすっかり溶けてしまったように感じたからだ。
本当に欲しいのは、1カ月限定の熱狂ではなく、退屈な日曜日や雨の日にひっそりと自分を癒してくれる、あの甘いひと粒。
私たちはいつから、チョコレートを「食べるもの」ではなく「タイムラインを彩る被写体」のように扱うようになってしまったのだろう。
かつての高級食パンのように…
ふと、数年前を思い出す。
あんなに大勢の人々が並んでいた高級食パンの店も、予約必須の映えるパンケーキ店の看板も、今では静かな別の景色に変わっている。
どちらも最初は「美味しさ」から人気が高まったはずなのに、いつしか「手に入れること」自体が目的になり、まるで競技のように熱狂は止まらず、消費の速度が作り手の思いやブームになる前から気に入って大切にしてきた人々の楽しみを追い越してしまったように思える。
バレンタインの狂騒を見ていると、胸の奥が少しざわつく。
愛してやまないこのひと粒が、ブームという名の巨大な波に飲み込まれ、やがて使い捨てられてしまい「ああ、昔流行ったやつね」と、かつての流行になりはしないかと、胸を痛めてしまうのだ。
海外のチョコレート文化

「舶来」のチョコレートを明治屋に足しげく通ってはプレゼントしてくれた、ハイカラなおじいちゃんのおかげで、私は小学生の頃からスーパーのチョコレートと海外のボンボンショコラの味の違いがわかるようになった。海外に行くとお土産屋さんや空港のDFS(免税店)ではなく、ロウびきの袋にスコップですくったチョコレートやキャラメルを量り売りしてくれるお店に通うのが楽しみだ。
フェリシモのチョコレートバイヤーみりさんは、世界中のチョコレートを発掘して日本に何千というブランドを送り込んできたこの界隈での第1人者。

そんな、みりさんとお会いする機会があり、海外のチョコレート事情をお聞きすると「とにかく! どんな小さな漁村でも、行けども行けども畑しか見えないような場所でも、必ず地元の人に愛されるショコラティエがあるんです。日本のようにバレンタインだけではなく、海外ではお誕生日もクリスマスもおめでとうのお祝いもギフトと言えばチョコレート。もう文化としてチョコレートが根付いているんですよね。」と輝く笑顔で教えてくれた。
2月15日のチョコレート
デパートのきらびやかな装飾が徹夜作業で撤去され、魔法が解けたように静まり返る2月15日。祭りのあとの虚しさと淋しさが胸をかすめる。
海外の小さな村に当たり前に存在するという「人生の折々に、お気に入りのショコラティエのひと粒を贈る」という豊かな文化が、この国にはなぜ育たないのだろう。
もしかしたら、1カ月限定のこの過激な狂騒が、日常に根付くはずの小さな芽を、その熱量で焦がしてしまっているのではないか。
私はここを一度「卒業」することにした。
行列に並んで「被写体」を探すのではなく、ブームとしてトップショコラティエの作品を消費し尽くすのでもない。ただバレンタインデーだけではなく、2月15日でもいつの朝でもいい、家族を送り出しゴミ出しをして洗濯機を回しながら掃除機をかけた後、お気に入りの店で選んだひと粒を、静かな部屋で慈しむ。そんな当たり前の幸せをチョコレートと共に過ごしたい。
願わくば、スポットライトが消え、赤やピンクのハートやリボンの装飾が消えたあとの街にも、季節を問わず愛されるひと粒が、当たり前のように居場所を持ち続けてほしい。
さて、お湯が沸いた。コーヒーを淹れよう。今日も自分のためのひと粒を……。






