
第239回 多賀麻希(79) ステージが空きました
リハビリ室に案内されると、彼女はすぐに見つかった。
学生みたいな若い男性に付き添われ、車輪つきの歩行器を押して小さな一歩一歩を刻む彼女は、赤地に白の水玉模様のスウェットの上下に身を包んでいた。
着ているものと合わせたわけではないだろうけれど、おしろいをはたいた肌は白く、紅を引いた唇は赤い。
黒やグレーや紺色のトレーニングウェアにすっぴんの人たちの中で素人劇団に紛れ込んだスターみたいに目立っている。
年齢は60代後半くらいだろうか。熊本にいる母は22歳のときに麻希を産んだ。麻希は今、44歳。母と同じくらいかもしれない。
初めて会うその人は、「マダムさん」と呼ばれている。
「お待たせしました」
歩行器を押してマダムさんが麻希のところまで来た。
「ミノリさん、今日も頑張りましたね」
「ありがとうジュン君」
スポーツジムのインストラクターと会員のような爽やかなやりとり。ジュン君と呼ばれたトレーナーは麻希に「ミノリさん頑張ってますよ」と声をかけ、白い歯を見せて立ち去った。
「洗剤のコマーシャルに出てきそうでしょ、彼」
マダムさんがいたずらっぽく言う。話し方はゆっくりだが、言葉に詰まる感じはない。リハビリの成果かもしれない。
「わたしは歯磨き粉だと思いました」
「いずれにしても白いわね」
ジュン君の噂をしながらマダムさんのペースで廊下に出た。
「あ、その前に。はじめまして」
麻希があらたまると、歩行器とマダムさんも立ち止まった。
「会うのは初めてだったわね。すでにお世話になっていますけど」
麻希がマダムさんの洋品店の店番に入るようになって、2か月近く経つ。ハーブのマイさんのテコ入れで品物が動くようになり、棚に空きスペースができてきた。そこに作品を置かせてもらってはどうかとマイさんに提案された。
「マキマキさん、ステージが空きましたよ」
マイさんらしい、そんな言い方で。

頭に浮かんだのは、緑のがま口ポーチだった。
モリゾウが開いてくれたオンラインショップ「makimakimorizo」に最初に並べた、クローバーの刺繍を施したポーチ。
《ミント色の風が頬に触れて、自分が泣いていることに気づいた。五月の昼下がり。》
《鏡に映る自分の姿を気にするようになったのは、いつからだろう。そのとき、見ているのは、鏡の中の自分ではなく、誰かの視線。》
《急がないでいいよという言葉にも焦ってしまう私をあなたは誰よりも知っている。》
劇作家でもあるモリゾウが商品写真に添えた文章は、詩のようだった。同じ型紙、同じ布地から生まれた、形もサイズも同じ3つのポーチに、モリゾウは別々の紹介文を書いた。3つ子のそれぞれに名前をつけるように。
モリゾウが布雑貨とその作り手を作品、作者として扱ってくれているのがうれしかった。ポーチに買い手がつき、作り続ける自信と希望を授かった。
チューリップバッグ。ひまわりバッグ。作品も作者も大きくなっていった。その前途にケイティが立ちはだかった。
ひまわりバッグのデザインを盗まれたことに直談判で抗議したとき、麻希の目の前でmakimakimorizoの商品ページを開いたケイティは、「SOLD OUT」が並んでいるのを見て、自分のネームバリューのおかげだと勝ち誇った。
盗作騒ぎでサイト訪問者が激増し、数十点にも満たない在庫が一気にはけたのは確かだが、全部を売り切る前に「SOLD OUT」を出したのが事実だ。これ以上購入者とのやりとりを重ねるリスクを避けたモリゾウの判断だった。
大勢の信者を抱え、メディア露出も多いケイティに対して、麻希はあまりにも無名で無力だった。その後、makimakimorizoのオンラインショップを閉じ、無気力が加わった。

行き場を失った品物の一つがクローバーのポーチだった。
《急がないでいいよ》とモリゾウが添えた言葉を実行するかのように、4年近い時を経て、ポーチは表舞台に引っ張り出された。
今度は、手に取ってもらえる場所に。
最初にマダムさんに店番を頼まれた伊澤直美が話を取りつけ、伊澤直美の義姉で時々店番に入っている亜子のイラストを置こうという話が進んでいた。ひまわりバッグの代理購入を義妹に頼んだ伊澤亜子はイラストレーターで、バッグの購入に充てたのは、久しぶりに絵が売れた代金だった。
伊澤亜子以上に店番をしている麻希にもスペースを使わせてもらう資格はあるだろう。とは思うものの、一度挨拶しておきたくて、リハビリ入院中のマダムさんを訪ねたのだった。
リハビリ室から談話室に向かい、空いているテーブルに着くと、周りのテーブルからの視線を感じた。
「次々といろんな人が来てくれるから、私ね、実は、大物政治家なんじゃないかって思われているの」
マダムさんが麻希に耳打ちし、ふふふと笑う。麻希もつられて笑う。
「私、政治家に見える?」
どう答えるのがいいのか、麻希は返事に迷う。
「今日の色味は、赤と白で、だるまっぽいですね」
「だるま?」
「選挙の事務所に置いてるじゃないですか」
滑ったなと思いながら言い繕うと、「ああ、あれね」とマダムさんは納得した顔になった。
「でもね、だるまじゃなくて小鳥なの。この服、優亜ちゃんとママからのプレゼント」
赤地に白の水玉模様に既視感がある。マダムさんの洋品店に吊るされていた小鳥のオーナメントだ。伊澤直美から「誰にも売らないでください」と言われていたが、いつの間にかなくなっていた。誰かに買われてしまったのか、伊澤直美が引き上げたのかは聞いていない。

「私、布雑貨やドレスを作っているんですが、先週からお店にポーチを置かせていただいていまして」
持参した紙袋から不織布に包んだポーチを取り出した。マダムさんにプレゼントするために新しく作ったものだ。
「同じデザインのものです。これ、マダムさんに」
そう言うと、マダムさんは驚いた顔になり、恐縮した。
「お礼をしなきゃいけないのは、こっちなのに」
「いえいえ。素敵なステージに立たせてもらえて、作品も喜んでいます」
「私は、それがうれしいの。お店を生きた場所にしてくれて、ありがとう」
マダムさんが深く頭を下げる。
そうか。お店も出番を待っていたんだ。
こみ上げた涙に麻希は鼻の奥がツンとする。
「再開発でね、あの場所を立ち退くことになったんだけど、ちょうど潮時かなって思ってたの。私がこんなことになっちゃったし、お客さんも売り上げも減って、細々と続いているだけで、私の人件費を無視しても、赤字だったし。静かにひっそりと店を閉じることになると思っていたんだけど」
ゆっくり区切りながらマダムさんは愉快そうに話し、「ところがどっこい」と言って言葉を止めた。
「ところがどっこい、ですね」と麻希は相槌を入れる。
「どっこい、どっこい」とマダムさんがかけ声のように続ける。
「私がいなくなったら、お店が息を吹き返しちゃって」
「いえ、マダムさんはリモート店長ですから」

マダムさんの店では今日、手作りのハロウィンクッキーを販売している。中心になっているのは伊澤直美とスーパーマルフルの佐藤千佳子で、パンケーキ屋のkirikabuも巻き込まれている。販売に必要な許可も取りつけてある。
「品物を売り尽くして店が空になったら、マルシェを開くんですって」
「マルシェですか?」
「そう。ハーブマルシェ」
あの企画がまだ生きていたのかと麻希は驚く。佐藤千佳子に頼まれて麻希が企画書のイメージ図を描いたマルシェだ。
企画とか夢に賞味期限なんてない。握り潰さなきゃ生き続けるのだ。自分が諦めなきゃいいだけだ。
《急がないでいいよ》
マダムさんの店が、マルシェのステージになる。
「間に合うかしらね」とマダムさんが言う。
「間に合いますよ。早ければ11月中にステージが空くと思います」
麻希がそう言うと、
「お店じゃなくて、私」
とマダムさんに訂正された。
マダムさんは、自身の退院が間に合うかどうかを心配していたのだ。
マダムさんのお店なのに、マダムさんがいないハーブマルシェを思い描いてしまっていた。
「マダムさんの退院祝いも兼ねられるといいですね、ハーブマルシェ」
「私、それを励みにリハビリ頑張るわ」
マダムさんがステージに帰ってくる日まで、わたしたちが温めておく。

次回11月7日に多賀麻希(80)を公開予定です。
編集部note:https://note.com/saita_media
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