育児であぶり出される”やばい夫”たち
30代前半は育児駆け出し期で、赤子を抱える知り合いが多い。赤子が生まれると
「えー会いたい、久しぶりに会おうよ~」
となって感動の再会を果たすことも多々だが、育児は十人十色、家庭も十人十色、なかには「はて?」と首を傾げる不思議な色もある。
他人の家庭の色に口を出すのは野暮かもしれないが、どうしても耐え難い色がある。
それが育児“サポート”に留まる夫たちだ。
Yahoo!知恵袋や発言小町やツイッターで取りざたされる“やばい夫”は、時代の変化に適応できない希少種であるか、昭和ど真ん中世代の生き残りだと思っていたのだが、友人の話を聞いて「意外といる」と感じた。
愛娘のうんちを処理できない夫
旧友のM子は「A型の長女」を代表する人物である。
忍耐強く真面目で、人の悪口を言わない。もちろん五教科七科目を粛々と勉強し、名の知れた国立大学に入り、公務員となった。真面目街道まっしぐらだ。
そして年上の同僚と社内結婚し、妊活を経て子宝に恵まれた。幸せ街道まっしぐらだ。
ところが、夫は育児力が著しく低かった。悪気なくできないタイプである。
潔癖症ではないのだが、汚物だけはだめらしい。愛しい愛娘のうんちを見るのもきついらしく、うんち処理はできない。愛娘がうんちをすると、A子を呼ぶアラートマシンとなる。
よくよく聞いてみると、うんち処理できないくん(と命名する)は育児全般に当事者意識がない。お手伝い感覚なのだ。
A子が「髪を切りに行きたい」と言えば「俺もついていくよ」と言い、「買い物に行きたい」と言えば「俺もついていくよ」と言い、金魚の糞のようについて回る。
おかげでA子は産後1年弱、1~2回しか一人で外出していないそうだ。
私とA子がビデオ通話で数時間長電話したときも、何度か愛娘を抱えた夫がちらちらを部屋をのぞきに来て、ハッキリと口には出さないものの「まだ電話は終わらないのかな」オーラを出していた。
ちなみに、うんち処理できないくんは攻撃的ではない。
どこか後ろめたさがあるらしく、A子のご機嫌を伺うようにして付いて回る。A子に甘えている自覚はあるのだろう。
うんち処理できないくんの母親は過保護で、息子に甘い。彼の実家に行くと
「〇〇ちゃん(赤子の名前)はうんち処理できないくんにすごくそっくり!」
と何度も言うらしい。悪気なく。
“母親育児”を強要する夫一族
私は新生児期からベビーシッターを活用し、その後は一時保育、0歳児で保育園入園と育児を他者に頼りまくっている人間だが、意外と「しばらく自分だけで面倒を見たい母親」は多いらしく、「保育園っていいの?」と聞かれる。
もちろん保育園によって方針や質に違いはあれど、私からすると「レストランっておいしいの?」みたいな質問で、餅は餅屋、万が一のアクシデントを除いて育児のプロに育児を委ねることに何の疑問が?と不思議なのだが、我が子のこととなると心配になるのだろう。たぶん。
まあその程度の不安ならかわいいものだが、いまだに「何事も母親が一番!」と母親神話を信じて「小さな子どもを預けるなんてかわいそう!」と考える人も存在する。
フリーランス仲間のB子は夫一族(夫含む)から「保育園もベビーシッターも断固反対!」と指導を受けている。
フリーランスというのが悩ましいポイントで、仕事量を調節できる自由な身ゆえ、育児と仕事を両立できずにメンタルブレイクして、夫に相談しても
「つらいなら仕事を辞めればいいじゃないか」
と言われるだけなのだ。
しかし、フリーランスは自由ゆえに、
「一度戦線から離脱したら仕事が減るんじゃないか」
という不安と隣り合わせである。
それに仕事が好きな人間も多いので「少しくらい仕事をしたい」という気持ちもあったりする。
本来、行政や保育園の一時保育を利用したり、ベビーシッターをたまに活用したりと手段はあるはずなのだが、夫一族から
「子どもを預けるなんてかわいそう!」
と猛反発を食らうので、B子は心が折れ、じわじわと「育児も仕事も中途半端な私はダメな人間だ」と自己嫌悪を募らせ、病んでいった。
夫一族は裕福な昔ながらの名家である。価値観も前時代的だ。実はB子も家柄が良く、保守的な家庭で育っている。両家の母はもちろん専業主婦、良妻賢母を理想とする人々だ。
ゆえにその呪縛から抜け出せない。厳しく育てられた副作用なのか、自尊心も低い。家族の意見を「うるせー!」と薙ぎ払い、飛び出していくタイプではないのだ。
過保護な母親が「他人任せな男」を作る
とある番組を見ていたら、高嶋ちさ子氏がこう宣言した。
「男が馬鹿なのは母親のせい!」
この発言だけ切り取ると叩かれてしまいそうだが、かみ砕くと
「母親はどうしても息子をかわいがって甘やかしてしまう、そうすると女性に任せきりで何もできない男が出来上がる」
といった理論だ。
私も、息子を持つ母親としてグサリときた。
A子もB子も、私からすると訳あり夫を抱えているように見えるが、どこか育児が他人事でサポーターに留まる彼らは、どうも母親に甘やかされてきた節がある。
母親が自分の育児にフルコミットだったから、時代の変化を目の当たりにしてもなお、無意識に「自分の母親と同じ母親業」を妻に求めてしまうのだろう。そういう価値観が根付いているのだ。
私でさえ良妻賢母は正しそうに見える。それが非の付け所のない理想像のように思える。
だがしかし、時は令和である。
自由を勝ち取るには反旗を翻し、立ち向かうことも必要かもしれない。
言うは易しだが、友人として、A子やB子には屈せずがんばってほしいと願ってしまう。
子どもの母親は祖母ではなく、夫でもなく、自分自身なのだから、在るべき母親像なんて自分で決めていいのだ。