わたしたちはずっと、「未来」を生きてきた
一体日本人は生きるということを知っているだろうか。
小学校の門を潜〔くぐ〕ってからというものは、一しょう懸命にこの学校時代を駈け抜けようとする。
その先きには生活があると思うのである。
(中略)
そしてその先には生活はないのである。
現在は過去と未来との間に劃〔かく〕した一線である。
この線の上に生活がなくては、生活はどこにもないのである。
森鴎外の「青年」にある一文。見たことあるって方もいるかもしれません。
2022年は森鴎外没後100年にあたるのですが、いま読んでも人は同じような悩みを抱え続けているのかもなと思わされます。
ぼくはときどき「不安」に胸が苦しくなることがあります。
子どもがいて、仲良く助け合える妻がいて、ありがたくも仕事だってある。
それでも不安になるのは、ぼくが「未来」を生きているときです。
「仕事がなくなったらどうしよう」「もういい歳だし、雇ってくれるところなんてないかもしれない」「いまはやりたいことを犠牲にしても、子どもや家族、仕事につくそう」
とくに子育てをしていると、「自分の人生」は後回しにしてしまいがちじゃないでしょうか。
家事シェアの悩みを聞いていると、いつの間にかキャリアや人生の話になることがあります。
そこでよく聞くのが。
「『子ども』のため、『夫』のため。そう思って、今はわたしが我慢すれば全部うまく回る」
というもの。
子どもと寄り添い合う暮らしは素敵だし、夫のキャリアは家族にとって大切な支えになるかもしれません。
でも、それで「私」が我慢をしているのだとしたら「全部」はうまく回ってなんかいないと思うのです。
何より「私」がうまく回っていません。
子どもの頃から、受験のため、就職のため、仕事のため、と「未来」を生きることが当たり前になっています。
40代になってしまったぼくたちは、いったいいつ「今を生きる」ことができるのでしょうか。
種まきを楽しむ
娘の通うスクールでは、子どもたちが年間を通して米作りをします。
ペットボトル稲をつくって、それを山梨の田んぼまで持っていって田植えをして、定期的に草刈りに行ったり病気対策をしに行ったりして、収穫。そしてごはんやお餅にしてみんなで食べます。
子どもたちはそのプロセスをワクワクと楽しむんです。
ペットボトルの中の稲が成長する過程に喜び、泥だらけの田んぼに入ることを楽しみ、雑草をどれだけたくさん取れるかを競い合い、収穫量に一喜一憂し、ごはんを味わう。
「収穫」という大きな目標に向かいながら、そのための種まき一つ一つを満喫している。
田植えも、草刈りもけっして収穫のための我慢や試練ではありません。
ぼくは、そんな子どもたちを見ていると「今を生きてる」んだなと感じます。
ぼくたちは、未来のためにいつも種まきをしています。
子どもや家族のために、自分のやりたいことを我慢することだって。
夢を叶えるために、勉強に励むことだって。
仕事を成功させるために、徹夜で働くことだって。
では、その収穫したはずの実は、どうしているでしょうか。
我慢して手に入れた実を食べることなく、写真に撮ってSNSにアップして、実自体はつぎの収穫に向けてまた植える。
そんな気がしてならないのです。
ぼくは子どもたちから教えられた「今を生きる」コツがふたつあります。
ひとつは。
「種まき」を楽しむこと。
収穫のことだけを考えて我慢するのは辛い。けど、何かのために我慢するのではなく、そうして得た日常こそを楽しめたらいいなと思います。
ときには、収穫を大きくする工夫よりも、収穫のためのプロセスを楽しくする工夫の方が幸せをもたらしてくれるかもしれません。
そしてふたつめは。
「収獲した実」をちゃんと味わうこと。
ぼくたちが過去に投資してきた未来は、今です。
その結果手に入れた幸せを、今味合わなくて、いつ味わうのでしょうか。
死ぬまで未来は続き、種まきは続き、収穫した実を食べることはほとんどないまま。
そうではなくて、今目の前の生活の中に、喜びを注入していかなくては。
そんなことを思う、40代です。