本当の幸せなんてあるんだろうか
死なないために生きているとか、人生は死ぬまでの暇つぶしとか、そういう後ろ向きな言葉が好きではなかった。あまりにも身も蓋もなく、夢も希望もなく、長い人生が無味無臭に思えるからだ。つらいことや苦しいことが起きた時に「なんで生きてるばっかりに」「暇つぶしなのに割に合わない」とやる気(生きる気)を失いそうでおそろしい。
「私たちは幸せになるために生まれてきた」という言葉のほうが、すごく美しく前向きで、生きる活力を与えてくれる。だからつらいことや苦しいことを受け入れ乗り越えるためにも「幸せ」というニンジンを鼻先にぶら下げて、雨の日も風の日も健気に生きていた。
どんなに今つらくても、幸せになるためにがんばって生きよう、きっと幸せになれる、今よりもっともっとよくなる、私だっていつか絶対幸せに……
そう思ってがむしゃらに生きて、幸せの象徴とされる結婚をして、はたまた幸せの代名詞である子どもを授かって、仕事しながらしゃにむに毎日を駆けずり回って、ふと玄関の鏡に映る自分と目が合い、思う。
はたして今、私は幸せなんだろうか?と。
幸せという影も形もないものに縋り付いているから、真の幸せは別にあるのではないか、このまま生きて死ぬのは不幸なのではないか、と根拠のない疑念に囚われる。
何不自由ない現代、欲は叶えど幸福感は薄い
幸せとはとろけるほど甘く、とろけるほどあいまいな言葉である。目に見えず、ものさしで測ることができない。
だから「これがあれば幸せ」という公式もない。
たくさんのお金があっても、恋人に愛されても、仕事で高く評価されても、円満な家庭があっても、どうしようもなく不幸だと嘆く人もいる。人より多くを得たがゆえに価値の基準が上がってしまい、かえって不幸になった人すら。
どうやら、数字はわたしたちを幸せにしない。うまい棒30本入りをドンキで大人買いした30歳の夏より、親にスーパーでうまい棒を3本買ってもらった6歳の冬のほうが圧倒的に幸福だった。
お金にしてもそうだ。ライターとして独立した直後は馬車馬のように働いて年収1,000万円に到達したが、稼げば稼ぐほど幸せだったのかというとよくわからない。
もちろん多少の贅沢はできるようになったけど、生活レベルは思うほど変わらなかったし、自分以上に稼ぐ人は山ほどいて「小金持ち」程度でしかなかった。庶民的で平凡な日常なのにやたらと忙しく、いつも薄くピリピリとしていた。
母になってからは「あんなパワープレイの働き方で育児までしたら“不機嫌なお母さん”になってしまう」という確信があり、かなりペースダウンして収入も落ちたが、幸福度はむしろ上がった。
だから当時のような働き方をしてまで稼ぎたいとはさらさら思っていない。今の私が当時の働き方をしたら、たとえ稼げても不幸になるだろう。
「推し活」にみる無上の悦び
マツコ・デラックス氏の著書『デラックスなんかじゃない』で
人間、自分のために生きているうちは幸福は感じないのよ。よく『自分にご褒美』っていうけど、アレ、まったく幸福感なんてない。やっぱり、ヒトサマや別の生き物に愛情を注いでいるときが、いちばん幸福なのよ。
という一節を読み、ああ、なるほど、と何かがほどけた。
山ほど高価なブランド品を持っている著名人やホストやキャバ嬢が、多忙なのにもかかわらず犬や猫を飼いがちな理由がここにあった。
それを裏付ける研究結果もある。世の中にはギバー(与える人。他人中心で、受け取る以上に与える)、テイカー(受け取る人。自分中心で、与える以上に受け取る)、マッチャ―(バランスを取る人。与えることと受け取ることのバランスを取る)の3種類の人がいて、いちばん幸福度が高いのは多くを受け取ろうとするテイカーではなく、他人に多くを与えるギバーだった。
しかし、いちばん幸福度が低いのもギバーだ。
ギバーにも2種類いて、滅私奉公で他人の言いなりになるギバーはもっとも幸福度が低い。自分の意志と異なる行動を押し付けられるのは、これ以上ない苦痛だ。与えているのではなく、搾取されている。
もっとも幸福度が高いのは、自分の意志で与える対象を選び、惜しみなく与えるギバーだ。
自分が「愛情を注ぎたい」と感じた人に愛情を注ぐのが無上の悦びとなり、幸福度を高める。自分の意思と行動が一致しているから満足感がある。
最近あらゆる年代で推し活が流行っているのも、それだけ幸せを感じられるからだろう。
知り合いに両想いを期待しながら苦い片思いをするより、絶対に手が届かない高値の存在にひたすら熱量を注ぎたい。
同年代とひりつく恋愛をするより、我が子を愛でる感覚で若いアイドルに一方的な愛を注いで貢献したい。
好きな対象に見返りを求めず、ひたすらに惜しみなく愛を注ぐとき、人は底知れない幸福を感じるのかもしれない。
好きな相手だから没頭できるし、見返りを求めていないから落胆もない。無敵の幸せ。
偏愛せよ、さすれば幸福度が天を衝く
推し活に限らず、見返りを求めず好きな対象に愛を注げばいいわけだが
「そんなの独りよがりで虚しいだけ、それが幸せなんてまやかしだ」
と思う人もいるだろう。
しかしたとえ偽善的でも、滑稽でも、何かが欠落していても、不完全な状況を愛することこそ幸せの近道ではなかろうか。
完全無欠なものを愛するのはただの利益の追求であって、そこにあるのは愛でなく欲だ。
欲はけして私たちを満たしてはくれない。もっともっとと心の渇きを深くする。
自分の愛を一方的に捧げてもいいと思える何かを見つけ、とにかく愛してみる。
そんなの盲目だ、不毛だと周りに蔑まれても
「うるさい、これが私の幸せだ、私の人生だ」
と叫んで偏愛を抱えたまま死ねたら、それがいちばん幸せなのかもしれない。
私もそう叫べるほど偏愛したい。家族もそうだが、人以外にも何か……やはり文章か。執筆に身を捧ぐなら本望である。