「最近、あまりお腹がすかないのよね。何が食べたいとか、実はもうこの5年くらい、ぜんぜん浮かばないの」
コロナウイルス感染症防止のための自粛期間が明けて数ヶ月。久しぶりに会った同世代の友人が言う。あれ? そう思ってたの、わたしだけじゃないんだ。「わかる〜」と大きく頷いた。
「中年になって、消化エネルギーが下がっちゃったのかなあ?」
という言葉にも同意するしかない。以前に比べるとごはんを美味しく食べられてないなあと、実はこのごろ感じている。かといって、食欲が完全にないわけではもちろんない。出てきたものは食べている。でも「自分の食べたいもの」と考えようとすると、はたと困ってしまうのだ。いったいわたしは何を食べたいんだろう?
以前ならひとりランチの機会はめちゃくちゃ嬉しくて、何を食べようか真剣に考えたものだ。ところがこのごろは何を食べるかどうしても決められず、いろんなお店の前をウロウロするばかり。結局、ひとりでのんびりいられるコーヒーショップに入ってしまったりする。家でのひとりランチは、納豆ごはんに味噌汁で終わりだ。
当然ながら、晩ごはんに何を作るかも浮かばない。困って子どもたちに「ごはん、何が食べたい?」と聞いても「おいしいものなら、なんでも〜」とか適当に答えられ、頭を抱えてしまう。家族に食べさせたいものを優先してきたから、自分の主体性がなくなってしまったのかしら……。
でも、かなりの食い道楽だったひとり暮らしの友人も「最近、食べることを考えるのが面倒になってきた」と似たようなことを言っていたから、同世代には共通の悩みなのではないかとも思う。内臓の老化のせいと思いかけていたけれど、たぶんそれだけでもない。自分でごはんを作って食べる生活を始めて20年なり30年が経ち、わたしたちは料理を作ったりごはんのことを考えたりすることに疲れてしまったのだ、きっと。
でもそもそも、毎日のごはんって「何を作ろう?」「何を食べよう?」とそんなに頭を悩ませなきゃいけないことなのだろうか?
わたし自身のことを振り返ってみると、わたしにとっては「何を食べるか」は長らく人生の中でも上位を占める重要なテーマだった。子どものころから、今日の給食は何だろう、今日の晩ごはんは? と楽しみでしかたなかった。大学時代には、試験前やレポート提出前になると現実逃避でスーパーに行っては、棚の端から端まで時間をかけてじっくり見たものだ。
働き始めた20代。仕事中にもヒマさえあれば「今日のランチは何を食べようか?」と悩み、ランチ後には歯磨きをしながら「晩ごはんはどうしよう?」と考えていた。仕事が忙しくていい加減なものを食べてしまった日には、貴重な一食をムダにしてしまった気がして悔しかった。部署内の先輩に、いつものコーヒーチェーン店でお決まりのアイスコーヒーとサンドイッチを毎日のように買って出社し、残業で遅くなったといってはいつものカレーチェーン店でお決まりのメニューを食べて帰る、あまりにも食に興味のない人がいたが、わたしはそんな彼を珍獣を見るような気持ちで眺めていたものだ。
30代に入り、子どもが生まれて慌ただしくなってからも、「子どもにきちんと食べさせないと」とやはり、ごはんのことを考えていた。こんなにも食べ物のことばかりを考えているっておかしいんじゃないのか、人からは呆れられるのではないかと心配になるくらい、食べ物のことを考え続けていた。仕事で疲れすぎて眠れない深夜、生協の宅配カタログで食材をぼんやりと眺めるのは癒しの時間ですらあった。
40代は料理の仕事がメインになり、料理を面倒に感じることもいくらか増えたとはいえ、試作でいろいろ作って食べられるのは、やはり楽しかった。生まれてから50年近く、それだけ食べ物に執着してきた自分が料理に疲れ、食べたいものすら思い浮かばない日がやってくるとは思ってもみなかった。人生、何が起こるかわからないものだなあ。
そこで思い出したのが、アメリカでホームステイをした高校2年の夏休みのこと。わたしが食べ物に並々ならぬ執着を抱くようになったきっかけでもある。
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