10歳ちょっと上の大好きな先輩がいる。いつまでもみずみずしく若々しく少女のような見た目のまま奇跡の還暦を迎えたその先輩が、10年ほど前に言っていた忘れられない言葉がある。
「50になるとね、『老後』って言葉が見えてくるのよ」
当時でも50にはとても見えなかった若々しい彼女からそんな言葉が出たときには驚き「まさか〜」と笑ったものだが、その「50になると老後が見えてくる」という言葉はずっと私の脳裏から離れなかった。
正直、年甲斐もなく現実がいまいち見えていない私には「老後」はまだまだ遠いものだけれど、50の足音が聞こえてきたいま、その先輩のおかげで定期的に老後を意識することができている。それがなかったらきっと私は60を過ぎても自分は老後の域に入っているとは気づかなかったに違いない。
でも、老後っていったいいつからなのだろう。「老いた後」とはなかなかすごい言葉だが、わかりやすいところだと、仕事を引退したらだろうか。年金支給開始年齢が引き上がったこともあり、少なくともひと昔前の「60歳で引退」「60歳で年金」という頃よりは老後年齢は上がっているような気がする。だとすると、65歳で前期高齢者になったときが妥当なラインだろうか? 最近雑誌で読んだコラムによると、ある広告代理店の調査でわかったことには、一般の方たちの認識では「おじさん、おばさん」は42〜43歳から、「高齢」は68〜69歳から、というデータが出たのだそうだ。やっぱり。60なんて初老にすら入らないという私の認識は特別に楽観的なものでもなく、最近ではごくごく一般的なものだったらしい。
さて。私の父は65歳で仕事を引退してから15年がたつ。父の場合はわかりやすく、仕事を引退して前期高齢者となったこの65歳からが老後生活と言えるだろう。引退までサラリーマンとして駆け抜けてきた人だから引退後は抜け殻のようになるのではと心配していたけれど、なんだかいつも楽しそうだ。聞くと「引退したら、歴史の本を読んで史跡を見に行ったりするのが楽しみだった」らしい。ずっとモーレツサラリーマン(もう死語ですね!)として忙しかった父にとって、一日中、歴史の本を読んだり勉強したりすることは憧れの時間の過ごし方だったに違いない。
わたしもその気持ちはわかる。いま現在、同じ年頃だった父と比べてそこまでモーレツな働き方はしていないものの日々やるべきことは山積みで、読みたい本はたまる一方。どれだけ時間があっても足りない。老後になったらゆっくりと本を読みたいものだとずっと思っている。
それなのに、この頃ふと気づくと、本を読むのが辛くなってきた。どうにも集中できないのだ。
数年前から、細かいものが見えづらくなってきた。いわゆる老眼だ。同級生の飲み会は「こんな薄暗い店で細かい字のメニュー読まれへんわ〜」とメニューを遠ざけてみる"ボケ1割、本気9割"の「老眼でメニューが読めない自慢」から始まる。コロナ以前だから、まだ我々が40代半ばの頃の話だ。若い頃に眼が良かった人の方が老眼は早いというのは事実のようで、学生時代に眼鏡なしだった人に限ってメニューを遠ざけてみては、暗くて読めず、ついにはスマホのライトで照らしたりしていた。
ずっと視力が1.5あった私は完全にスマホライトが必要な側だ。ついに諦めて老眼鏡を買った。「リーディンググラス」と今はかっこよく呼ばれているらしい。裸眼で生きて来た人間にとって眼鏡をかけて本を読む行為はそれだけでかなり億劫なのだが、そこは贅沢を言っていられない。ここまで眼鏡なしでこられただけでも幸運だったというべきだろう。
さあ、これで文字もくっきりと読めるようになった。ここ最近、本に集中できなかったのは文字が見えづらかったからに違いないわ。
ところが。眼鏡をかけて読み始めてみても、まったくもって集中できないではないですか!「銀行に行かなきゃ」「メールの返事したっけ?」「次にスーパーに行ったらじゃがいもを買わないと」などなど、違う考えがどんどん流れ込んできてしまうのだ。おかげで読んでいる文字がまったく頭に入らず、同じ2〜3行をループすることもしょっちゅうだ。「ママ! ママ!」と子どもたちに邪魔される時代がせっかく終わったのに、まさかその頃には自分自身の集中力が落ちていたとは。おまけに硬い椅子に座って読んでいるとすぐにしんどくなる。では楽な姿勢で、とソファで読み始めるとすぐに眠くなる。
おかしい。こんなはずじゃなかったのに!