「ご飯できたよ」と呼ばれたらすぐに行く
以前「ご飯できたよ」と呼んでも、娘がなかなか食卓に来なかったことがありました。
「なんですぐに来なかったの?」と聞くと「他にやりたいことがあったから」とのこと。
そう言われて、僕は自分が子どもだったころを思い出しました。
まったく同じことを自分の母に言ったことがあったのです。
読み途中の本があったり、ゲームをやっていたり、宿題をしていたり。子どもは子どもなりに忙しいし、やりたいことだってある。
しかも「ご飯できたよ」と呼ばれたからすぐに行ってみると、まだ食卓に並べている途中だったりする。やりたいことをわざわざ切り上げて行ったのに、すぐに食べられないなんて……。そんなことを思っていたのです。
ですが、いま、自分がご飯をつくる側になってわかったことがあります。
子どもや家族は、僕がご飯を作っている間に自分の好きなことをやっています。本を読んだり、ゲームをしたり、宿題をしたり。
でも僕は、自分のやりたいことを全部後回しにして、家族のためにご飯を作っています。自分一人で食べるんだったら作らなくてもいいようなメニューまで加えたり、家族の好き嫌いや栄養のことまで考えながら、ちょっと面倒なレシピだって作ります。
それなのにご飯ができても「他にやりたいことがあった」とは、ずいぶんじゃないですか。
ご飯をつくるときって、食べるタイミングのことだって考えながら作ります。
生姜焼きが焼き上がってからご飯を炊いたり、お味噌汁を作ったりはしないのです。一緒に食べられるように、温かいうちに食べられるようにと作る。
少しくらい冷めたってべつに問題はないでしょう。でもね、食べる側がそれを主張するのは、作り手に対してあまりにも失礼なことです。
当時、子どもだったころの僕は、そうしたことに気が付きませんでした。自分の都合のことだけを考えていたのです。
それから30年以上。わが家では「ご飯できたよ」と呼ばれたら、すぐに食卓に行く、というのが大切なルールになっています。
「まずい」とは言わない
作ったご飯の中には、好きなものも嫌いなものもあるでしょう。上手くできることもあれば、いまいち失敗して美味しくないときだってあります。
自分で作ってまずかったなら「まずい」と言っていればいい。でも、作ってもらった食事に対して「まずい」と言うのは、本当に失礼なことです。
他人に対しては失礼にあたるとわかっているのに、家族に対してはさも当然かのように口にしてしまう人もいます。
でも、他人に言っちゃダメなら、家族に対しても同じですよね。
べつにまずくても黙って食え、ということではありません。
うちの娘は自分で色々と考えた結果「わたしの口にはちょっと合わないかも」とか「わたしは好きじゃないかも」とか「玉ねぎのこの紐みたいなのがちょっと苦手」とか、自分なりにいろんな表現を考えて伝えるようになりました。
その言い方には、必ず作った人を無下に傷つけないように、という気遣いが感じられます。
言ってることは「まずい」「嫌い」「食べたくない」と意味は同じでしょう。でも、一口食べて難しい顔をしながら色々表現を考えて伝えてくれる姿からは優しさを感じることができます。
好きじゃないものを無理して「美味しい」という必要はありません。食べられなかったら残すこともあるでしょう。
でも、それを作り手のせいにはしない。家族であっても、大切な気遣いです。