ラーゴムは「怠け」でも「妥協」でもない
僕たちは家事のクオリティ、手間のかけ方、そして家族への気遣いまで、無意識に高い基準になりがちです。
ラーゴムは、そこからただ適当に手を抜けという話ではありません。 長く続けられるバランスを選ぶということ。
家事シェアは、スタートダッシュで勝負が決まる短距離走ではなく、毎日ちょっとずつ進めるマラソンに近い。 だからこそ、どこかで「息が続かないやり方」を手放さないと、どちらかが辛くなって止まってしまいます。
たとえば、こんなパターンはありがちです。
「料理はできるだけ手作りで」 「忙しくても温かいご飯を子どもに食べさせてあげたい」 「部屋は毎日キレイじゃないとダメ」
ラーゴムは、日本人のこうした完璧主義に対して、「どこをちょうどよくできるか」という問いを投げかけてくれる言葉です。
「ちょうどよい基準」を家族で持てると、負担の偏りが変わる
家事には、見た目の「きれいさ」や「丁寧さ」の基準が必ず絡んできます。 その基準が高すぎたり、人によってバラバラだったりすると、結果的に気になる人の負担に寄りがち。
ラーゴムの視点でいうと、大事なのは「他の家と比べてどうか」ではなく、うちでは何点で十分かを決めること。 SNSで見かけるような、お店やホテル並みの仕上がりを家庭のデフォルトにしてしまうと、家事はいつまでたっても終わりません。
あるスウェーデンの方の話では、
・自分たちだけで部屋をキレイにせず、掃除代行などをうまく利用して家族時間をつくる
・疲れていたり、時間がかかるなら無理してご飯は作らない。出前のピザを家族で楽しむ
・家事の困りごとは家族みんなの前で話して、解決策や妥協案をいっしょに考えてみる
「これはこれでいい」を言葉にすると、「ちゃんとできてないな」とひとりで抱え込まなくて良くなります。 家事シェアは、タスクを分担技術であると同時に、合格ラインを共有する技術でもあるんです。
心を使う家事を忘れない
家事の負担には、目に見えにくいものも含まれます。 家族の好き嫌いや健康に配慮すること。何かを忘れないようにフォローすること、先回りして準備をしておいてあげること。 こうした心を使う家事のことを僕は「心の家事」と呼んでいます。
他にも、掃除や調理をする、という、体を使う「体の家事」。 段取りや考えることなど、頭を使う「頭の家事」があります。
体の家事に比べ、頭の家事や心の家事はシェアがしにくい。
だから、あえてラーゴムを意識することで張り詰めた日々の家事の空気を少し抜いてあげる。 「ほどほどでいいじゃん」と思えれば、「自分ばっかり」という気持ちを軽くすることができます。
「ほどほど」を潰しやすいクセ
僕もそうなのですが、もしも完璧主義なところがあるなら、ちょっと考えてみましょう。
- ルールを完璧に仕上げてから動き出そうとしていないか
- SNSや周りの家族像と、うちを比べすぎていないか
- 不満を我慢して黙っているうちに、心の中だけが荒れていないか
どれか一つでも当てはまるなら、それは怠けではなく、ちょうどよさを見失いかけているサインかもしれません。 まずはひとつだけ、基準か頻度か、関係の伝え方を、家族と言葉にしてみるところからで十分です。
家事シェアの土台には、掃除や洗濯と同じように、環境づくりと関係づくりの両方があります。 ラーゴムは、どちらにも効く考え方で、完璧な家庭像を追いかけるより、息苦しくない余白を守る考え方です。
「ただいま」と帰ってこれる家は、きっと、誰かが全部正解を抱え込んでいる家よりも、ちょっとゆるいけれど長く続く家なのかもしれません。




