答えは「自分の中にある」は本当?
「自分らしさ」と言われてパッとイメージが湧く人はいいと思います。その自分らしさはあなただけの宝物。けど、中には曖昧で不安定で確固たる自分らしさなんてわからない。という人もいると思います。
ぼくは、外面の「自分らしさ」はすぐに思い浮かびますが、本質的な「自分らしさ」となるとどうも曖昧。
外面の「自分らしさ」とは、他人から見たときの自分のキャラクターのようなもの。
優しいとか、誠実そうとか、いいパパとか。きっとそんなイメージが並びます。
それは嘘ではありませんが、当然自分のすべてではありません。そして、自分のすべてってなんだろうと思うと、曖昧で不確かなのです。
たとえば何かで迷っている時。
その内容にもよりますが、よく「答えは自分の中にあるよ」と言われます。ぼくも起業をした当初、何かの決断に自信が持てなかった時、言われたこともあるし、同じように人に言ったこともあります。
けど、迷っている時。自分の内面だけをどれだけほじくり返していても答えにはたどり着けないと思うのです。
答えは自分の中にある、のではなく「答えは自分で悟る」しかないということなのではないでしょうか。
悟るとは、仏教でいうところの「悟り」のような大仰なことではなく、「深く理解する、気づく」という意味での「悟る」です。
AかBかで迷っている時。
答えはAにしてもBにしてもたしかに自分の中にあるように見えます。でも、いろいろな人の話を聞いたり調べたり、一生懸命考えていき、あるときふいに「ああ、Aにしよう」と納得感を得ることがある。その腑に落ちる感覚こそが「わかった・決めた」よりももう少し深い「悟る」という感覚です。繰り返しますが、仏教で言うところのいわゆる「悟り」の話ではありません。
この感覚は、自分の中で反芻思考を繰り返すだけで見つけ出せることではないように思うのです。
そして、見つけた答えは状況、環境、話す相手などによって曖昧に変わっていく気がするのです。
今回はAという答えを選んだけれど、状況が変わればBやCになったかもしれない。
ぼくは「自分らしさ」にもそれと同じようなイメージを感じるのです。
自分らしさは、目の前のことに一生懸命になった結果でしかない
結局「自分らしさ」とはなにか、に囚われているそのことが苦しさの原因なのだろうと思うのです。
なぜなら多くの場合確固とした「自分らしさ」がどこかにあるわけではなく、それは常に変わっていくものだから。
いまがどんな色であろうと、どんな形であろうと、ここまで歩んできた道のりそのものが「自分らしさ」と言えるのだろうと思うのです。
だから「自分らしさを見つけよう、探そう」「自分らしい働き方をしよう」「自分らしい〇〇」に息苦しさを覚えます。
そんなにベクトルを自分に向けて突き立てなくてもいいんじゃないかって。
自分らしさが未来への決断のための軸を示すのではなく、歩んできた道のりを指すのだとしたら。
目の前にあることに、一生懸命に取り組むことこそが、自分らしさの構築だと思うのです。
未来の選択は、どんな選択をしたって所詮「自分らしい選択」になる。
あまり「自分らしさ」に囚われすぎず、振り返った道のりに対して「思えば遠くまで来たもんだ」と感慨深く思えていれば、充分「自分らしい人生」を歩んでいることになるのではないかと思います。
子育てをしていると、自分らしさを見失いがちです。
でも、子育てに一生懸命になっているここまでの歩みこそが、きっと自分らしいのではないでしょうか。