「ポテサラ論争」とは
今話題の「ポテサラ論争」。ご存じない方もいるかもしれませんので振り返ってみましょう。
話題の発端は「お惣菜のポテトサラダを買おうとしていた子ども連れの女性が「母親ならポテサラくらい作ったらどうだ」と高齢男性に言われていたのを、目撃した」というツイート。
これをキッカケに、この男性の失礼さやポテサラは実は手間がかかる料理なんだとか、なぜ「母親」だというだけでこのような理不尽な差別を受けなければならないのかなど、話題になっています。
「手間暇=愛情」は危険すぎる
手作りであるということは、つまり手間暇をかけているということでもあります。
そしてこの手間暇こそを「愛情表現」だと思いこんでしまうのは、作り手、受け手ともに大変危険だと思うのです。
ポテサラ論争でもよく見られる「お惣菜を買うのに罪悪感を感じてしまう」という意見。
これは作り手が「手間暇=愛情」という鎖に、がんじがらめにされてしまっていることの表れでしょう。
そして、「手作りで出されると愛情を感じる」というのは、相手にも自分にも同じように鎖を巻きつけるような思いです。買ってきたお惣菜だから愛情を感じられない、のだとしたらそれは「愛情」への捉え方が希薄だなぁと思わざるをえません。
それに、そんな罪悪感や「手間暇」こそ愛情というような鎖に縛られていると、最初は楽しめていた手作りだって、そのうち負担になってきませんか?
負担に思いながらイヤイヤ作った手作りの料理に、果たして愛情があるのか……。
では、わざわざ気持ちを込めてする「手作り」が「愛情」とイコールでないとするなら、手作りとはいったいなんなのでしょうか。
心地よく家事シェアをしていたり、厳しいプレッシャーを感じずに家事をこなしている人たちの話を聞いていると、この手作り(手間暇)を自分の楽しみや、愛情を彩るスパイスだと認識しているように感じています。
この思考回路の中に、幸せに生きるためのヒントが隠されています。詳しく見ていきましょう。
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