26年前の1月17日5時46分に起こった出来事
26年前の1月17日5時46分。電気が止まった。ガスも、もちろん水道も。あまりの大きな揺れに、すべてのライフラインが止まった。家の外では、ライフラインが止まるどころではとどまらず、あちこちで家が倒壊し、高速道路さえ崩壊していた。ただ、そんな様子を知ったのは、地震発生からしばらく経ってからのことだ。
5時46分の段階では、ただただ怯え、布団を頭からかぶりながら、何度も続く地の底から突き上げるような大きな揺れがおさまるのをひたすら待った。まだ携帯電話もない時代だったから、手元ですぐにつけられる明かりもない。「しょうこちゃん、大丈夫?!」と緊迫した母の声にとりあえず手探りで廊下に出て、両親と妹とお互いの無事を確認しあう。2匹の猫は揺れ始めたとたん、一緒に寝ていた母の胸を蹴り飛ばしてどこかに逃げて隠れたらしい。呼んでも呼んでも出てこない。
リビングに入ろうとして愕然とした。食器棚の扉が揺れで開き、ほとんどの食器が割れて床じゅうに散らばっていたのだ。急いで家族分のスリッパを玄関に取りに行き、スリッパを履いて割れた食器をジャリジャリと踏みしめながらベランダに出ると、停電して真っ暗な街に次々と火の手が上がるのが見えた。父はリビングを見回しながら、「えらいことになったなあ」となんだか他人事のように何度も呟いていた。
1995年当時、関西に地震が来るなんて関西人のあらかたは想像すらしたことがなく、わが家でも備えといえば、台風で停電したときのためのろうそくや(関西はとにかく台風が多く、私が子どもの頃にはよく停電したのだ)やカセットコンロくらいだった。そのろうそくとて、いざ地震が起きた日には探すのにも苦労したほどの奥に追いやられていたし、カセットコンロのガスボンベは3本入り1パックが買ってあるだけの非常に心許ない状態だった。いったいいつまでガスや電気なしで過ごさなくてはならないのか。残り少ないガスボンベを使うのも怖く、冬の室内でコートを着込みながら冷蔵庫にあった冷たい残りものを食べ、とりあえずは日中をしのいだ。
夜には幸いにも電気が復旧し、そこでつけたテレビで初めて街の様子を知った。ヘリコプターからの映像がうつしだす、屋根が地面についた家々や、ひしゃげて崩れた高架の阪神高速道路。想像以上の惨状に目を疑った。ベランダから見える火事は、夜になっても鎮火する様子もなく、消防作業もとても間に合っていないことは想像できた。そんななか、家の中で無事に過ごせているだけでも何と恵まれていることか。
電気が復旧したため、ガスはなくても炊飯器でごはんを炊き、卓上調理鍋で味噌汁を作ることもできた。また大きく揺れたら次こそはうちも崩れるかもしれない。居場所もなくなってしまうかもしれない。たびたび襲う余震に震え、次こそは来るかもしれない最大級の揺れに怯えながら不安に過ごした1日の終わり。温かいごはんが食べられたときには、心の底からほっとしたが、同時に、家が崩れた人や家が燃えた人たちに対して申し訳ないという後ろめたい気持ちが湧き上がり、味はよくわからなかった。「日本全部が地震でつぶれたわけじゃないもんね」「明日にはあちこちから援助物資が少しは届くよね」と後ろめたさを振り払うように、そうならいいなと期待しながら、みしみしと夜になっても頻繁に揺れる余震のなか、白いごはんと味噌汁だけの夕食をすませた。
「あったかいもん、食べたい」
震災後、2日ほど経った頃だろうか。ようやくテレビの取材などの車が神戸に入ってきたらしく人々の様子を映しだすようになり、ある避難所にいるおばあさんが言っていたことは忘れられない。わたしなど、たった1日でも疲れ果ててしまい、夜になってようやく温かい汁ものを食べられたときには、緊張した心と体がようやく少し緩む思いがしたものだ。真冬の寒いなか家を失い、避難所で何日も過ごしながら冷たいものを食べ続けるのは、どれほど心細いことだっただろう。パンやおむすびなどが届けられることに感謝はすれど、冷え冷えとした不安は晴れなかったのではないか。その数日後、炊き出しの様子を伝えるニュースのなかで、慰問に訪れた歌手の歌を聴き、配られた雑炊を食べながら涙を流していたおばちゃんたちの姿も目に焼き付いている。
昨年12月、友人の家族が出張で台湾に行った。日本でも2021年の年明けから主要都市部で緊急事態宣言も出て用心を呼びかけているが、台湾はその警戒は日本の比ではなく徹底しているらしい。台湾に入国した人には2週間の隔離生活が義務付けられているが、その隔離の徹底ぶりには驚かされた。指定されて滞在するホテルでは、下のコンビニにジュースを買いに行くことすら不可。部屋から一歩も外に出ることは許されず、きちんと室内にいるかどうか抜き打ちで検査が来るというのだから恐れ入る。食事は一日三食が部屋の前に置かれた椅子の上に届き、配達人がいなくなってからそのお弁当を部屋の中に入れるという仕組みだそうだ。
たびたび送ってくれる写真で見るお弁当は、日本にいるわたしから見ると、肉や野菜、魚とバランスよく詰められた台湾料理で正直「食べてみたい」と羨ましい内容だったが、友人は「温かいものがなくてかわいそう。インスタントの味噌汁やカップ麺でも持たせればよかった」としきりに心配していた。「2週間だけ」と区切りが見えている隔離生活でさえも、冷たいものを食べ続けると人は疲れてくるのだなとあらためて知る思いだった。
※表示価格は記事執筆時点の価格です。現在の価格については各サイトでご確認ください。