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東日本大震災から10年。子どもには「自分の命を守れる人になってほしい」

家族・人間関係

2021.03.07

2011年3月11日に起こった、あの未曾有の大地震から今年で10年。あの地震、そして津波を経験した方たちは、この10年という年月をどのように過ごしてきたのでしょうか。今回saita では、あの日、東北の町で東日本大震災を経験した方に、あの日のこと、あれからの10年についてお話しを聞くことができました。10年という時間が経った今だからこそ語れること、これからの生き方についてお話しいただきました。

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その後の人生を大きく変えた判断

フェルト

Yokoさん(36歳)は、7歳の男の子と4歳の女の子のママ。長男の妊娠を機に始めたフェルト雑貨が人気を呼び、Instagramのフォロワー数が1万人を超えるハンドメイド作家として活躍している。震災の翌年に結婚。その後、お二人のお子さんに恵まれ、3年前からご主人が生まれ育った宮城県石巻市で生活をしている。

震災があったあの日、Yokoさんは仙台市内の実家から、彼(現在のご主人)が住む気仙沼に向かって車を走らせていた。

「もうすぐ気仙沼に入るというところで地震が起こりました。山の中だったので、停電にも気づかず、地割れするようなこともなく海に続く坂をどんどん進んでいきました。山を越えて、その先の道を下ると、被害が大きかった大谷海岸に着くのですが、ラジオから津波警報が流れてきたので、近くのコンビニの駐車場に入ったんです。しばらくするとパトカーがきて、海に続く道が通行止めになったと聞きました」

彼の家まであと30分。そのまま彼の家まで行ってしまおうかと悩みながらも、コンビニの駐車場に入ったというYokoさん。後続車の多くは、そのまま海へ続く坂を下って行ったという。その判断が、Yokoさんのその後の人生を大きく変えたのは言うまでもない。

「いつまでもコンビニの駐車場にいられないと思い、コンビニの人に教えてもらった旧役場まで移動しました。駐車場には、エンジンをかけたままの車がいっぱい停まっていたのですが、私は仙台まで帰るためのガソリンを無駄にできないと思い、役場の中へ入って寒さをしのぎました。避難してきた5、6人の方と一緒に、別の避難所に案内されたのが22時頃だったと思います」

Yokoさんは、その避難所で13日までの2日間を過ごした。携帯の電波が入らず、実家に連絡することも、彼に連絡をすることもできない状況の中で、避難所で出会った人たちとできるだけコミュニケーションをとるようにしていたそう。

「自分がどこからきて、誰を探しているかということを、聞かれていなくても話してまわりました。そのおかげで、勤務先にいるだろう彼はおそらく無事だということがわかりました。そして通れる道を探しながら仙台まで車で向かうという人がいることを知り、その方の後ろをついて仙台まで戻ることができたんです」

2日ぶりに実家に戻ったYokoさんが自宅のインターフォンを押すと、玄関先でお母さんは泣き崩れたという。

「11日の夕方に家を出ようとしていた私に、『雪が降りそうだから早めに出たほうがいい』と言った父は、あの日からずっと自分を責め続けていたと後から聞きました。自分が親という立場になったことで、あの当時26歳だった私はまだまだ子どもで何もわかっていなかったなということを感じます。もし、子どもが私のような状況になったら……ということや、あのとき、大切な人の安否が確認できず不安に押しつぶされそうになった人がどれだけいたんだろうと考えると、胸が苦しくなります」

地震を経験したからこそ伝えたい言葉

Yokoさんは、この体験を、2018年から毎年3月11日にInstagramを通して発信している。最初の投稿は、震災から4年目にフェイスブックに投稿したものを転載した。

「震災後、結婚、出産が続きバタバタと月日が流れて、震災3年目という日を迎えたときに自分の記憶が曖昧になっていっていることに気づきました。夫と話していて、『そんなこともあったな』と思い出すこともあるので、忘れてしまう前に書き残しておきたいなと思いSNSに投稿しました。10年経った今、当時のことを思い出してどうかと聞かれると、思い出せないことのほうが多いんです」

震災体験をInstagramで発信すると、驚くほど大きな反響があった。Yokoさんは、その投稿に寄せられた「自分は助からなくていいから、子どもには助かってほしい」という言葉について、あの地震を経験したからこそ伝えたい言葉があると言う。

「その言葉は、もちろん家族を思う故の言葉なんですけど、極限のときに自分の命を諦められる人の子どもや家族が必死で生き延びようとするだろうか。と、ふと思ったんです。

実際体験して、誤解を恐れずに言うと、災害で犠牲になることは、絶対に美談にならないと思いました。映画やドラマや漫画のように、誰かが犠牲になることで、誰かが助かるということは、実際の災害ではほとんどないと思います。伝えたいことがうまく伝えられるか不安ですが……。

助けてもらうことは必要だけれども、そもそも『今自分に出来ること』をみんながやらないと、助かる全体数が減るというか。

災害のときは、自分ができることは何かを必死で考えるプラス、いかにまわりと助け合うかがかなり重要です。『私はいいから』という人も、助けない訳にはいかないんですよね。足を引っ張っちゃダメなんですよ。みんなが助かるというベクトルを最大限に伸ばさないといけない。たとえ本心じゃないとしても、助からないことを考える場合じゃないんです。

自分の命を諦めないということは、それは決して他人を押しのけてということではなくて、自分の命も家族の命も守ろうとする覚悟ではないかと思います。そういうことも、私は子どもたちに教えていきたいと思っています。

自分で生き延びられる人になってほしい。

私も自分の体験を話しながら、『何かあってもお母さんは絶対に助かるように頑張るから、あなた達も絶対に自分の命を守りなさい!』と教えています。

本当に必要な人に助けが回せるように。みんながちゃんと助かるように」(Yokoさんが投稿したSNSから抜粋)

ランドセル

現在、Yokoさんのお子さんは学校の避難訓練で「お(押さない)・は(走らない)・し(喋らない)・も(戻らない)」と教えられている。「誰かを助けるために戻って命を落とすようなことにならないように、うちでは、何かあったときは必ず生きて会おうと家族で話しています」。

毎朝必ず顔を見て見送る理由

子ども

あの日から10年。Yokoさんは、話しながら「記憶が薄れてきた」「忘れてきた」という言葉を何度も口にした。人間に備わる「忘れる」という能力は、人が生きていく上で最も優れた能力なのではないだろうかと、今回被災された方のお話を聞きながら感じた。

「私が行方不明になったことで、親があれだけ泣く姿を見たときに、自分も誰かにとって大事な存在なんだなということを感じました。自分の命の重さ、一人の命の重さを、あのとき初めて意識したように思います。あの日、避難所にいて言葉を交わした方たちにも、それぞれに家族がいて、その家族のことを探していたんだということを意識したのは、親の泣く姿を見てから。震災後、家族を持ったことで改めて命の重さ、大事な存在のために生きるということを考えています」

もちろん、忘れられないこともある。そして、忘れられないからこそ、日々の中で大切にしていることもある。

「彼の無事がわかるまで、『彼と最後に交わした言葉はなんだったっけ?』と考えるのに、全く思い出せなくてそれをすごく後悔したんです。今は、仕事に行く夫を見送るとき、子どもたちを送りだすときには絶対顔を見て見送っています。『いってらっしゃい』と一緒に、家族と離れるときを覚えるようにしているんです。『もう会えないかもしれない……』。そういうことが起こり得ることは、この10年毎日感じて生きています」

SNSを通じて自身の体験を発信していくことが、果たして誰かの役に立つことなのかと悩んだ時期もあったというYokoさんだが、「あの日まで、津波に対して恐怖心を持っていたわけではなかったし、人の命を奪うようなものだと思っていなかった」と語るように、あの日起きたことを伝え続けることは、この先の未来を担う子どもたちにとってもとても大切なことだ。Yokoさんが強く願う「自分の命を諦めない」というメッセージが、多くの人へ届きますように。

取材協力:Yokoさん311インタビューYokoさん

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