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東日本大震災10年経った今だから言える「生かしてもらった命だからこそ、大事に生きる」

家族・人間関係

2021.03.10

2011年3月11日に起こった、あの未曾有の大地震から今年で10年。あの地震、そして津波を経験した方たちは、この10年という年月をどのように過ごしてきたのでしょうか。今回saita では、あの日、東北の町で東日本大震災を経験した方に、あの日のこと、あれからの10年についてお話を聞くことができました。10年という時間が経った今だからこそ語れること、これからの生き方についてお話しいただきました。

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海から2キロ離れた場所まで津波が来るとは思っていなかった

仙台市に暮らすMikiさん(31歳)は、ご主人と、5歳の娘さん、昨年4月に生まれた息子さんと4人暮らし。震災当時は、就職活動真っただ中の大学3年生だった。

「あの日は、弟の中学校の卒業式でした。大学が春休みに入っていた私は家にいて、卒業式から帰ってきた母と弟と、3人でテレビを見ていたら地震が起こりました」

2011年3月11日金曜日。あの地震が起きたのは、多くの人が、普段通りに週の最後の平日を過ごしている14時46分。

「父の実家が沿岸部にあったので、我が家では地震が起こると祖父母を迎えに行くことになっていて、あの日も、母が祖父母を迎えに行きました。私の実家は、海から2キロほど離れた場所にあるので、まさか実家のほうにまで津波が来るとは思っていなかったのです。しかし地震からしばらくして、近所の人たちが『2階にあがって!』と叫んでいるのを聞き、慌てて弟と2階に避難しました。窓の外を見ると、緩やかに土砂が流れてくるのが見えたんです。『これは、やばいね……』と言い合ったのを覚えています」

がれき当時住んでいた実家の2階から見たがれきの山

あの日の津波で、Mikiさんは母と祖父母を亡くした。数日後、近くの小学校で変わり果てた母と再会した。「教室にご遺体がたくさん並んでいる状態というのは、とても異質で恐怖を感じました」。祖父母も、近くの湖から発見されたという。

「私も免許を持っていたので、私が迎えにいくこともできたのですが、揺れが大きく怖かったので母に行ってもらったんです。震災後しばらくは、『あのとき、私が行っていたら……』と考えることもありました。でも今は、私が生きていることに感謝しようと考えられるようになりました」

公園山元町の磯浜海水浴場を磯崎山公園から見た風景。Mikiさんの祖父母の家がここから徒歩圏内にありよく行っていたが、震災後しばらくは海が怖くてどんな海にも近づけなかったのだそう

日常にあふれる「当たり前」に感謝

震災後、「もともとは、亭主関白ですごく怖い父だった」という父親との関係も大きく変化したそう。

「学校行事にはほとんど来てくれた記憶がなかった父が、大学の卒業式に来てくれたことはすごくうれしかったです。震災後から私が東京に就職するまでの1年間、父と弟と3人で暮らしていたのですが、その時間の中で、父を大切にしなくちゃいけないという思いが強くなりました」

大学を卒業後、東京にある企業に勤めるため上京したMikiさんに、父親が入院したという知らせが届く。

「就職して1年経たないうちに父が入院をしたんです。入院したと聞いても、簡単にお見舞いに行けない距離がもどかしく感じました。当時は弟もまだ高校生で、一番父の力になってあげなくてはいけない存在の私が何もできないというのがすごくイヤで、自分の気持ちが落ち着かなくなり、宮城に戻ることを決めました」

父親の入院を機に、東京での仕事を辞め宮城へ戻ったMikiさんは、地元の企業に転職。一時的に遠距離恋愛をしていた学生時代からの彼と、25歳のときに結婚した。

「最近は、実家で畑仕事をしている父が、週に1度採れた野菜をうちに届けてくれるんです。父は、孫が生まれてから、『私が子どもの頃はあんなに怖かったのに!?』と驚くほど丸くなり、とても優しいおじいちゃんになりました(笑)。玄関先で野菜を受け取るだけのときもありますが、一緒にいる時間が私にとってはとてもかけがえのない時間なんです。もし、あのとき私が死んでいたら、娘も息子も生まれていないし、この幸せな空間はできていなかったんだなと思う度に、家族の大切さを強く感じます」

そう言うと、Mikiさんは、9か月になる息子さんを抱きしめながら微笑んだ。震災から10年。この間に、結婚、妊娠、出産を経験し、母となったMikiさんは、あの日から10年の心の変化についても話してくれた。

「最初の5年くらいは、『母がいたらよかったのに』と感じることがたくさんありました。いてくれたら話を聞いてもらえる、助けてもらえるという気持ちが大きかったんだと思います。でも、悲しんでばかりでは前には進めないので、残された家族、新しく育んだ家族を大切に生きていこうと思うようになりました。
母親になったというのも大きいのかな。今ある当たり前は、決して当たり前なことではないので、日常にあふれる当たり前に思えることにも感謝をしなければいけないなと思っています。正直、明日がないかもしれないという気持ちはあれからずっと心の中にあるので、何よりも今を楽しく過ごしたいなと強く思います」

家族お子さんとご主人

10年経った今だから過去の出来事として話せるように

Mikiさんが、あの日のことを話せるようになるまでには長い時間が必要だったという。

「あの日の話をするのは辛い、思い出すのが辛いという時期は長かったです。今でこそ、母は祖父母を助けにいったから亡くなったということを受け止められるようになりましたが、私にとってたった一人の母の死について語ることは簡単ではありませんでした。
10年という年月が過ぎたことは大きいです。きっと、5年ではこんな風にお話しすることはできなかった。10年かけて、やっと気持ちが落ち着いてきて、過去の出来事として話せるようになったんだなと感じています」

震災から5年後に生まれた娘さんは、最近おばあちゃんの存在が気になるようで……。

「娘が、『パパのほうにはおばあちゃんがいるのに、ママのほうにはどうしておばあちゃんがいないの?』と聞いてきたんです。
そういうことを感じる歳になったんだなと、亡くなった理由を説明しました。すごく怖いことだからねと伝えましたが、まだよくわかってはいない様子です。
あの日から10年という日が近づき、あの日の映像をテレビで目にする機会が増えています。最近、久々に大きな地震もあったので、『気をつけようね』と伝えていますが、危ないということばかり伝えていると気持ちが落ち込んでしまうので、『大丈夫だよ。必ず助けてもらえるよ』ということも一緒に伝えています」

現在、育児休暇中だというMikiさんは、4月から仕事復帰が決まっているそう。

「忙しくしすぎて自分に余裕がなくなるのはよくないと思っているので、自分も家族も楽しく過ごせることを基準に、バランス良く暮らしていけたらいいなと思っています。私が生きられるのは家族があってこそ。一番大事なのは家族です。
最近、主人が、『震災から10年、すごくいろんなことがあったよね。今の気持ちはどうなの?』と聞いてくれました。そして、生かしてもらった命だからこそ、大事に生きようねと2人で話しました」

櫻震災後、当時付き合っていた彼(現在の旦那さん)がMikiさんを元気づけようと仙台市内の公園に桜を見に連れ出してくれたのだそう

震災後、「何を楽しみに生きていけばいいのかわからない気持ちがあった」というMikiさんは、この10年という時間の中で、生かされた命を大切にするために、今できることに丁寧に向き合ってきた方だと感じた。

決して無理はせず、辛いことは辛いという気持ちにしっかり耳を傾け、その気持ちに寄り添ってくれたご主人の存在も大きいだろう。「10年経ったから話せた」。その言葉は、とてもストレートに響いた。Mikiさんの気持ちの変化を、このタイミングで聞かせてもらえたことに感謝します。

取材協力:Mikiさん

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