今回お話を伺ったのは、𠮷村享子さん(60歳)
友人の中でも一番乗りの結婚を果たし、第一子、第二子を順調に出産。仕事は1日3時間程度のパートにとどめ、安定した日々。そこから一転!
44歳でまったくの未経験だった技術職のエステティシャンとして、就職を叶えた享子さん。彼女はなぜ、こんな大胆な決断ができたのでしょうか?
結婚する前から、人生のスケジュールを決めていた
──20歳での結婚に迷いはありませんでしたか?
享子さん:社会人として働くことは、楽しくて楽しくて(笑)、だからプロポーズは一度断ったんですよ。それでも夫が諦めなかったので、25歳までは子どもを産まずに働くことを条件に、結婚しました。
──当時は、まだ『寿退社』が主流だったのでは?
享子さん:1980年は、ちょうど会社の激変期だったんです。タイプライターからワープロに変化するように、少し前までは寿退社が主流だったけど、私の時代は「出産退社」に変わっていましたね。
──子育て中から、社会復帰は考えていましたか?
享子さん:結婚前から、自分の人生は大体決めていました。子どもは絶対2人。それから40歳で第2の人生で、また社会に出る。そして、55歳で第3の人生を……。でも現実は、想像とは全然違いましたけど(笑)。
私は一度死んだと思っています、だから…。
──36歳の時、人生観を変える出来事があったそうですね
享子さん:車に乗り右折するために停車していたら、後ろから2tトラック、前からダンプに衝突される、という交通事故にあいました。ぶつかった瞬間、視界が茶色い壁一色になったので「あぁ、私死ぬんだ、子ども自宅に置いてちゃった、どうしよう」と。
実はその直後、私は無意識のうちに、現場近くの友人に「私死ぬと思うから、来てくれる」と電話していたそうです。救急車や警察より先に、その友人が駆けつけてくれたんですが、私は気絶していたそうで、覚えてなくて。
──まさに急死に一生ですね、かなり大怪我をされたのでは?
享子さん:後部座席は2tトラックに、助手席はダンプに潰されたんですが、運転席だけは無事で、ムチウチだけですんだんです!(とはいえ、半年間は首が動かせない状態) このとき、これは神様から与えられた命だなって、だから第2の人生は「人のために何かしなくちゃ」と思いました。
──そこで、なぜ「エステティシャン」を選ばれたのでしょうか?
享子さん:人はキレイになったり、心が癒やされると「笑顔」になりますよね。笑顔になると、人は喜ぶ。だから漠然と、「美」の仕事をしたいと思っていた時に、ちょうど求人があったんです。
上司も同僚もみんな年下、社長だけが同じ年!
──44歳、未経験、職人の世界、不安要素だらけですが、怖くはありませんでしたか?
享子さん:上司も同僚もみんな年下、社長だけが同じ年(笑)。技術も座学も、なかなか覚えられなかったんですが、学ぶことが楽しくて楽しくて! 美容のことはまったく知らなかったので、教えてもらうたびに「えっ、そうなんだー!」と感動してました。
──年下の上司に教えてもらうことに、抵抗や不満は?
享子さん:3月生まれだったせいか、幼少期から自分に自信がなくて。それに子育てしてると、私はピーマン食べられないのに、この子は食べてる! なんてことに、感心する毎日だったので(笑)。自分より若い方に教えてもらうことは、全然。
──動き出してから、密かな夢が叶ったそうですね!
享子さん:息子が中学生になったら『2週間だけ家出します、その時はテーブルに10万円置いておくから、探さないで』と言っていたんです。ずっと家族に囲まれていたので、一人になりたかったんですが、叶いませんでした。でも就職面接の時に『大阪で2ヶ月間の研修に来れますか?』と言われて『大丈夫です!』と即答しちゃって(笑)。2週間の夢が、2ヶ月になりました。
──2ヶ月間家を空けることに、家族の反対はありませんでしたか?
享子さん:夫は「いーよ、いーよ」と黙って送り出してくれたんですが、ママ友が「やめな!」と(笑)
──留守の間、家事はどうされたんですか?
享子さん:主人は何もできない人なんですが、それは親のせいだと思っていたので。私は息子が生まれた時から「独り立ちさせるために、仕込まないと!」と、料理を教えていたんです(笑)。研修の時は、ちょうど高2で帰宅部。夕食担当になってもらいました。
月給3万円が、本当に自分の価値なのか?
──第2の人生で、なぜ社会復帰を選ばれたのでしょうか?
享子さん:主人に負けたくないっていう気持ちがありました。
(離婚や死別で)もし今1人になったら、自分には何も残ってない。1人で食べていく力がないのは、なぜ? 家事は、フルタイムと同等の仕事量だと思っていたけど、お給料にすると0円……。
当時、1日3時間程度のアルバイトをしていたんですが、月給にすると3万円程度。こんなんなんだ、私の価値って。私は子育てのために会社を辞めたけれど、もしあのまま勤め続けていれば、主人と同等の力があったはずなのに……。だから、働くことを選びました。44歳のあの時、エステティシャンになることを選んだおかげで、人生が変わりました!
──エステティシャンとして店長にまで昇進し、20年も頑張り続けられた理由は?
享子さん:私はスタートも遅く、能力も実力もなかったので、努力しかできませんでした。だから、ただがむしゃらにやるしかなかった。でもありがたいことに、やればやっただけ、お客様、スタッフ、会社から、ちゃんと「見返り」が戻ってくるんです。私にとっての見返りは「笑顔」。たくさん喜んでもらえた分、ちゃんと笑顔が戻ってくるので、また頑張れる。ただこれを繰り返していたら、あっという間に時間が過ぎていました。
──定年後のご予定は?
享子さん:私は1つのことに集中しがちなので、仕事中は、お客さまとスタッフに密に触れ合ってきました。その間、家族を疎かにしてしまったので……。まずは、テーブルにクロスを引いて、好きな器に、手作りの料理を盛って……という生活をしようと思っています。そんな新しい生活リズムができてきたら、またエステティシャンとして復帰したいですね。(すでに退職された会社からは復帰の打診があるそうです!)
saita読者へメッセージ
そんな彼女から、saita読者にメッセージをいただきました。
享子さん:ネガティブに考えていると、全てうまくいきません。もし、やりたいことが、今できないことであっても、それに対しどんな道があるかを考えてみてください。考えると、乗り越える力が出てきます! 楽と苦の分かれ道があったら、暗くならない・前向き・努力できる方を選ぶといいですよ。
いつも明るく前向きで、笑顔が素敵な享子さんも、たまに落ち込むことがあるんだそう。そんなときは、彼女曰く「(地球の反対側)ブラジルまで落ちるの!」と、おっしゃいます。人生これ以上つらいことがない、というほど徹底的に落ち込むと、気持ちは上がっていくしかなくなるそうです(笑)。