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「別居」は互いを成長させる、信頼と自立のベストな選択。「なかよし別居のすすめ」松場登美さんインタビュー前編

家族・人間関係

 「別居」は互いを成長させる、信頼と自立のベストな選択。「なかよし別居のすすめ」松場登美さんインタビュー前編

2020.11.22

デザイナーとしてライフスタイルブランド「群言堂」を率い、また女将として古民家を再生させた「暮らす宿 他郷阿部家でお客をもてなす…女性の憧れを絵にしたような松場登美さん(70歳)が暮らすのは、島根県の山間にある人口が400人にも満たない大森町。遡ること45年、4つ年下の大吉さんとは今でいう「授かり婚」。エネルギッシュなふたりは、昭和の時代には眩しいほどの輝きを放つビッグカップルだったに違いない……そんな思いを抱えてお話を伺いました。

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特集:夫婦は続くよ、どこまでも

出会ったときは「アパートの隣人」

「なかよし別居」中の仲睦まじい松場さん夫妻。登美さんと大吉さんは「同士」だそう。

ふたりが出会ったのは名古屋のアパート。隣同士に住んだことが縁の始まりだったそうです。そのきっかけは、まるで人気女優が主演するドラマの第一話のよう…。(一読の価値あり!)当時、登美さんは三重県の実家を離れてギャラリーに勤める社会人、大吉さんは大学生という関係。大恋愛かと思いきや、日々愛を語り合う…のではなく、議論を戦わせていた!というのだから驚きです。

―――ご結婚されてから、今の「なかよし別居」に至るまでの話は、たっぷりと本に書かれていますので(笑)ちょっとそれまでのお話も聞いてみたいな、と思うんですが。

登美さん:4人姉妹の末っ子で、小さい頃はあまりしゃべらない子でした。何か自分の思いを主張すると「変わり者」と言われることが多くて、自分の思いを説明したところでなかなか通じないことも多くて「ま、いいか。」と黙ってしまうという…。思春期の頃はそういう「みんなと違う」部分をうまく表現できなくて、生きづらさみたいなことを感じていましたね。

「みんなと同じ」が良しとされていた時代に

他郷阿部家で生き生きと働く登美さん。次々と夢を叶えるパワフルな女性にも思い悩んだ時期があったとか。

―――昭和の時代は「普通」とか「みんなと同じ」が良しとされていましたしね。「良い子」でいなさいという世間の圧がありました。

登美さん:いろんな思いがあっても、知らないうちに自制していたところがあって。でも、高校に進学して入部した美術部の先生がとても芸術家肌の方で、私が「変わっている」と周りから言われていたような部分を「面白い!」と褒めてくださったんです。時には「三重県のジャンヌダルクだ!」なんて言って(笑)私が文化祭や他校との交流なんかを通して積極的に仲間を集めて進めてゆくのを見守ってくださって、とても勇気が湧いて自由になれた気がしました。

―――美術部ですか。その頃からデザインに興味を?

登美さん:美大に行きたいな、とは思いましたが「デザイナーになる」とまでは思っていませんでしたね。思い出深いのは、文化祭で色画用紙を使ってイラストを描いたり、名前を横文字で入れたりして「世界でたったひとつ」を売りにしたペーパーバッグを作ったら飛ぶように売れたことです。その時に「自分が作ったものを人が喜んで買ってくれる。作品に金額が付く。」ということを初めて体験しました。ある日、バス停で私の作ったペーパーバッグを持ってくれている人を見かけたことがあって「知らない人が自分の作品を気に入って使ってくれている。」ことに大きな喜びを感じました。

「出会った時の距離感」が、私たちのスタンダードかも

美しいものに心が動かされる瞬間を大切に。住まいの縁側に佇む秋の野の花。

―――お金が手に入る、という事実よりも、自分が楽しんで作ったものを知らない人が手にして使ってくれる、という体験の方に心がゆさぶられたのですね。そんな体験を胸に名古屋に出て、どんなお仕事に就かれたんでしょうか?

登美さん:三重の画材屋に勤めていたときに、名古屋のギャラリーのオーナーに見込まれて働かないかと言われました。現在97歳になられる画材屋のオーナーとは今もお付き合いがありますが、その頃はそれはそれは厳しく仕込まれたんです(笑)もちろん可愛がってもいただきましたよ。でも、ちょうど20歳ごろで実家から離れたい思いもあって、名古屋に行ってみることにしたんです。

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