職場でも家でもタスクが目白押しでツライ…嘆く男性の言い分
以前、講演会でこんな男性とお話をしました。
「ぼくは毎日夜遅くまで残業をしていてクタクタなんです。せめて家ではくつろいで過ごしたい。それなのに家に帰ったら家事や育児をやるべきだとアチコチで言われています。仕事をして、家族を養うためにお金を稼いで、その上で家事までやらされるなんて、不公平です」
この方は、心身ともにとても疲れ切っているように見えました。
そして、逃げられない男性の辛さをそこに感じました。
ジェンダー平等の課題が語られる中、ここ数年フィーチャーされてきたのが「男性学」。
ジェンダーの問題は女性が抱える生き辛さの問題であるだけでなく、男性が抱える生き苦しさの課題もあるのです。
その中のひとつに「男性には仕事を辞める選択肢がない」ということがあると言われています。
学生時代を終えてから、定年を向かえるまで。男性は働き続けるというレールから基本的に逸脱することができません。
少なくとも今の風潮では男性が「ちょっと仕事辞めてパートでも」は珍しい存在とされます。
男は仕事をしていなくてはおかしい。そうした思い込みがあるためか、スーツ姿で夕方にスーパーで買い物をすることを恥ずかしかったり、エプロン姿で宅配便の受け取りをすることがを恥ずかしかったりする男性が一定数いるんだとか。
「この人は、仕事してるのかな? リストラされたのかな?」などと一瞬でも思われることへの恐れになったりしています。
(もちろん、昨今はテレワークも推進されたためか、男性が平日昼間にスーパーで買い物も珍しくなくなってきました。いい流れですよね)
こうした思い込みは、女性が料理が苦手、片付けが苦手など「家事育児ができない」と思われたら恥ずかしい、と無意識に思い込んでしまうのと似ています。本人にとっては「気にしなくていい」という言葉一つで払拭できるものでもないのかもしれません。
つまり何が言いたいかと言うと、日本で育つと無意識のうちに男性自身が「稼いでいること」を自分自身のアイデンティティにしていることがよくあるんです。
そして、それを「ふつう」「良かれ」とする社会があります。
「稼ぐ」という免罪符はいつか自分の首をしめることになる
「稼いでいること」が自分自身のアイデンティティになってしまうことの弊害は、いまの生き辛さにつながるだけでなく、生死にも関わってくる大問題だと思っています。大げさに言っているわけではありません。