苦しさを作る要素は
「毎日の家事育児」を家族の中で自分の役割になっている人が抱える苦しさは、この長距離性にこそあるんです。
気合や一時的ながんばりでどうにかすることができない。その連続性に追い詰められる。
夫婦で助け合うには、この違いをお互いが理解し、尊重し合う必要があるんじゃないでしょうか。
もちろん、ふたりが同じように長距離走として走り続けることができるなら、コミュニケーションのすれ違いなどほとんど起こらないかもしれない。でも、日本においては夫婦2人が同じくらい長距離走できるようなパートナーシップを実現するのは、まだもう少し時間がかかりそうですよね。
両立をする。家族を支えるというのは、その瞬間だけを見ても本質は理解できないってことを、ぜひしってほしい。
いま、この瞬間の大変さはいくらでも乗り切ることができる。そんなのは大した問題ではないんじゃないかと今の僕はおもっています。
折れるのはちょっとしたキッカケ
この長距離走的な疲労に僕自身最近苦しめられています。
ボディブローのようにじわじわと効いてくる心身の疲労は本人も気付かないうちに蓄積して、そして、些細なことをきっかけに膝が折れたりします。
仕事が忙しくなった、生活の環境が変わった、子どもがグズグズする。膝が折れた時、そうしたことがまるで「原因」かのように見える。そして自分でも不思議に思う。「あれ、たしかにちょっと大変になったけど、そこまでだったっけ?」と。
いくら思い返しても、ここまで身体が、心が言うことをきいてくれないことの説明がつかない。
それはそうだ。いま膝が折れたのはこの数年間の蓄積の結果であり、ここから数年間続くであろう長い道のりに立ち向かう元気が出ないからだ。
そして、仕事と家庭の両立が長距離走であるということに無自覚だったと気がつきました。
こうして、大した原因が思い当たらないまま、自分でも不可思議に思ったまま、ぼくは少しずつ走れなくなり、歩けなくなり、這うようになっていました。
キッカケは人生の新しい挑戦をしている妻の分の荷物を、「ぼくが持つよ」と受け取り、持ちすぎてしまったこと。でもこれはキッカケであって、妻のチャレンジが原因ではありません。じゃあチャレンジしなければよかったのか、というと違うんです。
長距離を走っているから、ラクにできることはラクしなきゃ、という意識を忘れていた結果だったと思っています。
いまは、あらためてこの長距離レースにどうやって戻っていくか。自分の仕事のバランスなども含め、家族で再調整をはかっているところです。
夫婦共働きがスタンダードなら、家族の在り方も変えていこう
家庭と仕事の両立という長距離走は大変なんです。
もちろん、途中には美しい景色があり、楽しいことがあり、達成感があり、この道を走れている喜びと幸せがある。でも、走り続けているのだということを忘れてはいけません。
夫婦が手を取り合い、ともに長距離を走れるなら走り続けることはずいぶん楽になります。フィフティ・フィフティに家事育児を分担し、お互いに休息の時間をしっかりととれるのなら。
でも、そうもいかない家庭も多いのが現実ですよね。我が家の場合は分担できていました。それでも6年間の長距離走はなかなかに疲労を蓄積していたようです。そしてそこに一時的とは言え負荷がかかった。
一時的だから大丈夫かと思ってしまったのは、自分でも長距離走に参加していことを忘れていたからです。
だからもし、少し無理しすぎなパートナーに気付いたら、お互いに「人生も、子育て期間も意外と長いよ? 無理しすぎていない?」と確認してあげたほうがいいかもしれません。
そのとき、長距離を走っている人の横を、パートナーが短距離、全速力で駆け抜けていてもしかたがない。「ほら、こんなふうに走ればいいよ」なんて言ったら、絆すら危うい。それは「独りよがり」と言われてしまいます。
家族の時間は形を変えつつ続いていきます。短距離走る選手と、長距離走る選手でどうやって助け合いながら走り切るのか。
それをお互いに考えることが真の夫婦の両立戦略なんだと、最近感じたのでした。
パートナーとお互いに「どっちのほうが大変だ」という水掛け論でケンカになりそうになったら、今回の記事を思い出してほしいと思います。