無意識に出る「ごめんね……」
我が家の夕飯は、だいたい18時にスタートする。
ときどき、自分の用事でその時間が遅れることがある。そんなとき私は無意識に、「ごめんね。夕飯が遅くなって」と夫や娘に言う。
うちの夫は、温厚が服着て歩いてるような人なので、夕飯が19時になろうが20時になろうが怒ることはない。
「あまり遅くなるなら、自分たちで何か食べるから急がなくていいよ」と言ってくれるほどだ。
それなのに私は、「いつもの時間に用意ができなくてごめんね」という気持ちになる。
疲れ果てて作る気力がないときには、「ごめん。今日出前でも良い?」と聞いてしまうし、3品作るつもりが力尽きて2品になったら、「ごめんね。今日これしか作れなかった」と言ってしまう。
ある時夫が、「なんでいつも「ごめんね」って言うの? 大丈夫だよ。ごめんねじゃないから」と言った。
「ごめんね」という気持ちにさせているのは、他の誰でもなく自分自身なんだなぁと自覚した瞬間だった。
もし夫が、「なんでいつもの時間に作れないんだよ!」とか、「出前はやだ。作って」とか言うタイプだったら、ふざけるなよと怒りをぶつけてケンカをし、「あんなこと言う夫が悪い! 私は何も悪くない!」と、罪悪感も吹き飛ぶのかもしれない。けど、私の場合、「これは私がやるべきこと」という無意識の思い込みで自分で自分を勝手に追い込んでいた。
“頑張るしかない!”と、育ってしまった私
自分で言うのもなんだけど、私は責任感が強い。“A型長女の特徴”という本があれば、そこに書いてある通りの人間が私だと思う。
人に甘えるのが下手だし、弱音も吐けない。口癖は、「大丈夫! 大丈夫!」。
そして、とにかく人に尽くす。
先日、SNSに「毒親に育てられた人の特徴」という投稿が出てきたので見ていたら、そのすべてに当てはまっていて笑ってしまった。
母は毒親ではない。ただ、親としてはかなり強い人だったので、私は長女として、「頑張るしかない」状況で育ったのは確か。
小さな頃から沁み込んだこの要素は、大人になってもなかなか抜けない。そして、事あるごとに自分自身を苦しめる原因となっている。非常に厄介だ。
“自分らしく生きる”ということ
これまで、”幸せに生きるために意識していること”や、”自分自身を大切にするということ”について書いてきた。
40代になってさらに意識していることでもあるし、歳を重ねる毎に、自分を幸せにするのは自分だという気持ちが強くなっている。
ただ、実はまだその意味に辿り着いていない生き方がある。それは、”自分らしく生きる”ということ。
”自分らしい”ってなんだろう。いつもこの壁にぶつかる。
例えば、幸せに生きるためには感謝の気持ちを持って笑顔で過ごしてみるとか、自分自身を大切にするためには自分がイヤだと思うことはしないとか、そういうことはわかる。
でも、”自分らしく”と言われると、それはつまりどういうことなんだろう……と、思考が停止してしまう。
”自分らしく生きると幸せになれる”とか、”自分らしさを大切に”ということが大切なのはわかるけど、世の中のどのくらいの人が、「わかりました! 自分らしく生きます!」となるのだろう。
そんなにみんな、自分のことをわかっているのだろうか。
私は、相手が特になんとも思っていないことにも、すぐに罪悪感を持つ。夫はそんな私を見て、「あなたらしいね」と言う。
すぐ、ごめんねを言う”私らしさ”が私を幸せにするとは思えない。とすると、私の場合、”私らしく=幸せではない”のではないだろうか……。という思考がグルグル。底なし沼だ。
このコラムを書くために、”自分らしく生きる”ということを考えはじめたら、この沼にはまってしまった。
抜け出せない……と焦ったとき、私の耳にスッと入ってきた言葉がある。
「Because You're Free」
そうだ。私は自由なんだ。どう生きようと、どう感じようと、結果それがこの人生を豊かで満たされたものになるためなら、「こうあるべき」「こう生きるべき」はないんだった。
「自分らしさを見つけないとそうなれない」という無意識が働き、どんどん難しくしていただけだった。
自分らしく生きるというのは、自由に生きるということなんだと思う。
制限なく、自分が心地良い環境に身を置けるようになったときに初めて、「自分らしさ」に気付けるのかもしれない。
最近、”自分らしさ迷子”になっている人が多いらしい。考えだしたら私もその迷路にハマった。
自分らしさを知らないと先に進めないと思いがちだけど、そうではなくて、自分のために生きて、幸せを手にした先に”自分らしさ”ってわかるものなのかもしれない。