ランチをしたお店で見かけた母娘
先日、久しぶりに会う友人とランチをした。本格的なアジア料理が食べられるお店。カウンターがメインのお店だけど、入り口近くに4人掛けのテーブル席が1席ある。
そこに、4歳くらいの女の子を連れたママとそのお友達が座って食事をしていた。
ずっと気になっていたお店だったけど、カウンターしかないと思っていたのと娘が食べられるものはあるかな? と、行くタイミングを探していたところだったので、「こんな小さな子がこれるなら、娘と一緒にこられそう!」と思いながら、カウンターに座った。
おいしいランチを食べて、テーブル席の横にあるレジでお会計をしていたら、さっきの女の子のママの声が聞こえてきた。
「ねぇ、早く食べて。本当に食べるのが遅いんだから」
ちょっと言葉がきついなと思い、思わずそのテーブルに目を向けた瞬間、女の子がママに言った。
「でも私、いつもごはん全部ちゃんと食べるよ」と。
えらいなぁと思った。そうやって、自分のことを主張できるのはすごいなぁと思った。
「そうね。全部食べるわね。でも、あなたは本当に食べるのが遅いの」
女の子は、フォーが入った小さな器に視線を落として黙った。
私はその瞬間、泣きそうになって、お釣りを受け取り慌ててお店を出た。
刺激された私のインナーチャイルド
他所様の子育てに口出しをする権利はないし、私が見たのはその母娘のほんの一瞬のこと。だから、それだけで何かを判断することはできない。
「でも私、いつもごはん全部ちゃんと食べるよ」
まだ4,5歳なのに、ちゃんと自分の気持ちが言えるのは、ママが普段ちゃんと気持ちを聞いてあげているからなのかもしれない。
ただ、その一瞬のママからの声がけが私にはすごくきつかった。こういう場面を見ると、私の中のインナーチャイルドが思っている以上に刺激される。
親という立場になっても、子ども側の立場になって反応してしまう。自分なりにインナーチャイルドを癒していても、それを0にすることは難しい。だから、時々思いがけない場面で私の中にいる傷ついた小さなkahoちゃんが出てきたりする。
私の母は、ものすごく愛情が深い人だ。故に、「こうすべき」「こうあるべき」という言葉が多い人だった。
全ては愛情から出ていることだと、今ならわかる。けど、やっぱり幼い頃の私にそれを理解することは難しかった。
「テストで、85点取ったよ!」と母にテスト用紙を見せると、「どうしてあと15点取れなかったの?」と聞かれた。
私は、「85点! すごいじゃない! 頑張ったわね!」と言われたかった。
気づけば、できたことよりできなかったことばかりを考えるような大人に育っていた。20代は、その思考の癖にものすごく苦しんだ。
親の言葉から感じる安心
家族で出かけた先のお店で、大きな声で泣いている子がいた。まだ2歳か3歳くらい。パパに抱っこをせがんでいて、パパは泣いているその子を抱き上げた。
お腹が空いたのか、眠たいのか、お店の中が暑いのか……。その子は、抱っこされた後も泣き止む気配がない。
抱き上げたパパが、「〇〇くん、パパね、〇〇くんのことちゃんと抱っこするためにコートを脱ぐね。だから1回おろすけど、またすぐに抱っこするからね。このままだと暑いから、コートだけ脱ぐね」と言った。
そう言われたその子は、急に泣き止んで、「うん」と言って抱っこからおりた。そして、パパがコートを脱ぐ間、パパを見上げて待っていた。コートを脱いだパパは、「お待たせ。これでちゃんと抱っこできるからね。あれ。〇〇くん、泣きやんだね。おちついたかな? 大丈夫?」と言った。
その一連の流れを一緒に見ていた娘が、「あのパパ、すごく素敵だね。ちゃんと説明してくれるから、あの子安心なんだよ」と言った。
私はそれを聞いた瞬間、涙が出た。
子どもが親の言葉から感じたいのは、安心なんだ。「これでいいんだ」と思える言葉が安心になるんだ。小さな子が、この世で安心して育っていくには、親から安心を感じる言葉を溢れるほどけかけてもらうことが大事なんだ。
私もそういう言葉がたくさんほしかった。
改めて書くと、「何をそんな当たり前のことを……」という気持ちになるけど、親という立場の自分を考えたとき、ちゃんと娘に安心を感じられる言葉をかけてあげられているかな? と、自分の言動を振り返るきっかけにもなった。
「笑顔で元気に1日を終えられて、笑顔で元気に1日がはじめられたら、それだけで完璧!」
娘によく話すことだけど、本当にこの気持ちを忘れずに子育てをしていきたいなと思う。