”わがまま”と言われるくらいの生き方
「これからは、”あの人、ちょっとわがままだよね”って言われるくらいの生き方をしなよ」。
47歳の誕生日祝いをしてくれた友人が言った一言。肩の力がふっと抜けた気がした。
第一印象は、気が強そうで芯が通っている人と思われがち。でも、実は私の根っこの部分は臆病でぶれぶれで自分に自信がない。
年齢を重ねながら強くなった部分もたくさんあるし、ポジティブな受け止め方もうまくなった。ただ、やはり根っこの部分は弱かったりする。
だからこそ、ポジティブな生き方をしたいと強く思っているし、できるだけネガティブに引っ張られないようにしている。
ある時、夫が私に言った。
「人の良いところを見つけるのがうまいよね。”この人はこんな人だよ”という説明は、その人の良さを最大限に詰め込んで説明するから、聞いている側はその人の素敵なところがすぐにわかる。でもさ、自分の説明は下手だよね。無意識なんだろうけど、自分のことを説明するときは”私なんて……”という遠慮がすごい。人の良いところを見つけるのも伝えるのも上手なのに、自分のことになると途端に下手になるのおもしろいよね」
「この人は、私のことを本当によくわかっているなぁ」と思う。だから時々、夫から聞く自分を通して、自分でも気づいていない自分を理解し、気づきを得るということをしている。
誰かのために生きることを存在意義にしていた私
「あなたは優しすぎる」。
この1年、親しい人たちから言われ続けた言葉。優しいというのは一見褒め言葉にも感じるけど、私にとって、この「優しすぎる」という性質は、結果的に自分を苦しめる要因となっていた。
誰かの役に立っていることが、自分の存在意義だと思って生きてきた。
小さい頃からそういう意識が強くて、「母のために」「弟のために」「友達のために」……。
求められたことに応えることで、「これぞ私。だから、私は存在していいんだ」と、自分という存在を認めてきた。
「自分を大切にして」。
これまで何度も何度も、私を大事だと思ってくれる人たちが伝えてくれたこの言葉の意味を、私は最近になってようやく理解した。
誰かのためじゃなくて、まずは自分のために。
自分のことを大切にするということ。自分の気持ちをちゃんと聞いてあげること。そして、それを行動にうつすこと。
今までの私は、頭の中で考えてできているような気になっていたけど、実はなーんにも自分のためにはできていなかったことに気づいた。
人に向ける優しさで、自分を傷つけていた。
そんなナンセンスな生き方をしていてはいけない。
47歳になる手前に、私は大きな気づきと学びを得たのだった。
私はこれから、”我がままに生きる”
「無意識なんだろうけど、自分を卑下するような言い方をすることがあるの気づいてる? それ、やめたほうがいいよ」
考えてみたら、こういうことをこれまで何度も言われてきた。
やめられるなら、今すぐやめたい。無意識だからこそ、指摘されるたびにこう感じてきた。
でも、無意識でやっていることを意識的に修正するのはなかなか難しい。
「それはよくないことだから、やめたほうがいいよ。もったいないよ」と言うのは簡単だけど、その人には、”そうしてしまう理由”があるということまで考える人は少ない。
励ましているようだけど、実はその人を追い込んでいることもある。
これまでは、「こう言ってくれているのに、直せない自分はよくない」と思ってきた。これも、誰かのためを軸にしている考え方だった。
本当の意味で、”自分のため”を理解した私は、これまでこう言われてきた自分について、「どうして、そうしてしまうのか」を考えた。
そして、その出てきた答えに対して、自分が実は我慢していたこと、抑え込んできたことを知った。
「あ、私、本当はそう言われるのがいやだったんだ」
自分の本音は、誰かに対して失礼になる。誰かを傷つける。
そう思ってきた私は、自分の本音を隠して、自分を卑下して、自分以外の人たちに認められるために、自分の本音に蓋をして見えないフリをしてきたんだ。
自分の気持ちにウソをついていたんだということに気づけたとき、誰かに良く思ってもらうために、自分の気持ちにウソをつくのはやめようと思った。
- いやなことはいやと言っていい。
- いつだってご機嫌でなくていい。
- 気持ちが乗らないときは、LINEに返事をしなくていい。
- 自分の気持ちを大切にして、そのまま行動していい。
- それを、”わがまま”だという人がいたら言わせておけばいい。
だって私は、自分のために”我がまま”に生きるという本当の意味に気づけたのだから。