歩く時間がくれるもの
私たち家族は、よく歩く。夫と私と娘。3人で出かけると、万歩計が15,000歩を超えることが常だ。
娘が赤ちゃんの頃は、ベビーカーに乗っていたり、抱っこ紐で抱っこしたりしていたけど、今では娘も私たちと一緒にたくさん歩く。
考えてみると、結婚する前から私と夫はよく歩いていた。同じ職場だった私たちは、仕事が終わってから家までの約3.5kmの距離を1時間ほどかけてよく歩いて帰った。
結婚後は、お互いにフリーランスで仕事をしていて、意識しないと家から出る機会がないということで、夕飯後に1時間ほど散歩をした。
娘が産まれてからも、私たちはいろんなところへ歩いて行った。だから、私のスマートフォンのカメラフォルダには、家族で散歩をしているときの写真がたくさん入っている。
私たち家族にとって、散歩は日常だ。当たり前にある時間で、その時間だからこそ感じられることがあって、話せることがある。
思春期真っ只中の娘。イライラしているなぁと感じるときには散歩に行く。歩きながら話すうちに、娘のイライラが和らいでいく。
本当の思春期になったら、「私は行かない」と言われる日がくるのかもしれない。けど、今のところどんなに機嫌が悪くても「散歩に行こう」と言うと、うれしそうに準備をするからかわいい。
そう。娘は何歳までこの家族散歩に付き合ってくれるのだろうと考えると、家族3人で目的もなく歩くこの時間がとてつもなく愛おしい時間に思えてくる。
歩くきっかけになったのは……
もともと、私たちががよく歩くようになったきっかけは、私のパニック障害だった。
家の最寄り駅から会社の最寄り駅までは、たった2駅だった。けど、その当時の私にとって、この2駅を電車で移動することがものすごく大変だった。
朝、駅まで行って、少しでも空いている車両を見つけて電車に乗る。1駅目の駅で人が降りて、少し隙間ができたことに安心しながら、次の駅を目指す。
朝は、遅刻しないように電車に乗るけど、帰りは門限があるわけでもないので、歩けるときは歩いたし、無理なときはタクシーで帰った。
夫が一人暮らしをしているマンションは、私のマンションから徒歩3分のところにあったので、仕事が早めに終わったときはよく歩いて帰った。
地球1周は、4万kmあるらしい。「私たちがこれまでに歩いた距離を計算したら、地球1周くらいはしているかなぁ?」と、夫に聞いたら、「さすがにしてないでしょ」と言われたけど、私はしてると思う。
夫と付き合っているときのことを思い出しても、この家族のことを思っても、浮かぶのは歩いているシーンが多い。
家族と歩く、かけがえのない時間
”よく歩く家族”。親しい人たちからも、そう認識されている。
そんな我が家だけど、さすがにこの夏は散歩時間が激減した。だって、暑すぎるんだもの。「朝晩の涼しい時間」が一切ない夏だったから、散歩時間が全然確保できなかった。
ようやく暑さが和らいできた先週の3連休。抑え込んでいた散歩欲が爆発した我が家は、連日20,000歩超えの散歩をした。
とにかく歩きまくった。
電車なら10分の距離を、数時間かけて歩くなんて、効率的とは言えないかもしれない。けど、「歩いたことがない街を歩いてみよう」という冒険的な散歩時間に、おもしろい発見があるし、それが家族の思い出になる。
先日、ある人に、我が家の散歩についての話をしたら、「家族で何時間も歩くって、すごく贅沢な時間の使い方だよね。それって、ものすごく豊かなことだね」と言われた。
あまり意識したことがなかったけど、本当にその通りだと思った。
時間は有限だ。人それぞれ、”時間”の使い方は違うし、その価値観もさまざまだ。
1分1秒でも多く仕事に使いたい人もいれば、自分のために使いたい人もいるだろうし、何か作品を作ることに使いたい人もいるだろう。
きっと、誰にとっても、”その人の人生にとって最も有意義な使い方”があるはず。
私たち家族は、家族3人で歩くこの時間が、ものすごく有意義で大切で、かけがえのないものと感じている。
この時間も、いつまで続くかはわからない。娘の成長と共に、また私と夫の2人散歩に戻るときがくるだろうし、それはきっとそう遠い先の話ではない。
だからこそ今、この瞬間にしかできにことに時間を使う。そんな贅沢な時間の使いができる家族を持てて、幸せだなぁと思う。
きっといつか、この散歩時間も思い出になる。でも、だからこそ今日もまた、私たちは歩く。
どこへ行くでもなく、ただ3人一緒に。