隣の芝生は青いけど……
「隣の芝生は青く見える」という言葉がある。
言葉の通り、隣の芝生は確かに青々して見える。芝生自体の質が違うのでは? そんなにきれいに成長する? そういう目で見はじめてしまったらキリがない。
若い頃の私は、「あの庭の芝生は青々してていいな~と見惚れている間に、自分の庭に咲いたかわいい花を見逃すような生き方をしたくない。例えどんなに青く見えたとしても、それはあくまでも隣の芝生だから」ということをよく言っていた。
これ、本当に何人の友人に話したかわからないほど、20代の頃からよく言っていたし、そういう風に生きたいと思っていた。
人は、どんなにたくさんのものを持っていたとしても、持っていないものに意識が向く。ないものねだりな生き物なのだ。
とは言え、私だって、人が持っているものをうらやましく思うことはある。でも、あくまでもそれは、「いいなぁ~」と思うくらいのこと。それ以上の気持ちを持つことはない。
例えば、「私は持てないのに、あの人は持てているなんてずるい! 許せない」みたいな気持ちで人を恨んだり、それを奪おうとしたり、持っているというだけでその人に対して意地悪なことをするなんてことは、絶対しないししたくない。
もし、それをして手に入るならやるかもしれない。でも、そんなことをして手に入るようなことはないし、それどころか、自分の中に負の感情を育てていくことになる。
隣の芝生に見惚れ、羨んでる間に、自分の庭のケアを疎かにして芝を枯らせるようなものだ。
ところが、若いころからずっとこの気持ちを強く持ってきたはずだったのに、最近の私は少しそのことを忘れてしまっていたようだ。
私が本当になりたいものとは?
46歳になっても、自分がなりたいものをまだ見つけられていないと感じている。常に、「私は何になりたいんだろう」ということを考えて生きている。
「見つけられていない」という言葉はネガティブに聞こえるかもしれないけど、決して悲観的に捉えているわけではなくて、これから先の人生を「何かになりたい」というポジティブな視点で見られている自分が好きだ。
若い頃に想像していた46歳は、なりたかった自分を極めつつある年齢だと思っていたのに、実際は、46歳になってもまだなりたいものに気づけてもいない。
職業は、フリーライター。インタビューをしたり、コラムを書いたり、新作発表会の取材に行ったりする。
この仕事をして13年。文章を書くことも、インタビューをすることも好き。天職に就いていると思っている。フリーという立場で、これまで1度も途切れることなくお仕事の依頼をもらえていることにも感謝している。
こう聞けば、「それが、なりたかったものなのでは?」と聞かれそうだが、私が見つけられていないと感じているのはこれとはまた別のもの。
私は私にしかなれない。
つい最近、「私は、誰かに憧れる存在になりたいわけじゃないんだ」という気づきがあった。
その瞬間、ハッ! とした。最近の私は、隣の芝生の青さにばかり意識が向いていたのでは? 自分の庭の芝生にちゃんとお水や栄養を与えてあげられていた? と。
自分がなりたいものを見つけているうちに、目に入ってくる”キラキラした人たちになれない自分”という思考に陥って、私の意識はいつの間にか見当違いの方向を向いていたようだ。
どうりで、向かうべき方向すら見いだせずにいたわけだ。
今は、身近な人がキラキラした投稿をしているのを簡単に目にすることができる。見えているものがすべてではないとわかっていても、今の自分に迷いや見いだしたいものがあるときには、勝手によりキラキラ見ちゃうものなんだなぁ……という学びがあった。
私は私にしかなれない。誰かを真似ても私はキラキラできない。
自分をキラキラさせる方法は自分で見つけて、自分で磨いていくしかない。
それは、誰かに憧れてほしいとかではなくて、自分の人生を悔いないものにするために。
誰かみたいにとか、あんな風に……ではなくて、私が私として輝けるために向かうべき方向が少しだけ見えた気がする。