10年に一度の大開帳で授かった赤札
今年は、川崎大師で10年に1度開催される赤札授与の大開帳の年ということを知り、5月某日川崎大師に行ってきた。
もちろん目的は、弘法大師の直筆として伝わる「南無阿弥陀佛」が手刷りされた「護符」を授けていただくため。
「赤札」と呼ばれるその護符を持つと、無量の功徳が授かると言われいて、授与期間とされる5月1日から31日までの1ヵ月間、川崎大師は連日大賑わいだったそう。
少し前、釈迦に興味を持ち本を読み始めたというコラムを書いたが、その流れで仏教や空海についても興味を持ったタイミングで、10年に1度の大開帳と聞けば、行かないという選択はできなかった。
平日の午後、なるべく空いていそうな時間を狙い、2時間ほどで赤札を授かることができた。
初めて訪れた川崎大師。せっかくなので護摩祈祷も受けた。願いごとは、「開運満足」。
ぎっしりと人が入った大本堂で受けたお護摩、20人ほどのお坊さんが唱えるお経の迫力に圧倒されていたら、あっという間に終わってしまった。
私は、神社仏閣を訪れるのが好きだが、このお護摩をきっかけに改めてお寺に魅力を感じた。
空海はマルチクリエイターだった
川崎大師で赤札を授かった2日後、奈良国立博物館で開催されている、「空海 KŪKAI ―密教のルーツとマンダラ世界」を訪れた。
「この会場にいる人の中で、赤札を持っている人はどのくらいいるだろう」
そんなことを考えながら、空海の生誕1250年を記念して開催されている空海展を堪能した。
この特別展でしか見ることができないものがたくさん展示されていると聞き、2度と見ることができないかもしれないものを、じっくり時間をかけて見てきた。
壁一面に展示されている曼荼羅や、五智如来坐像。唯一、撮影可能とされている文殊菩薩坐像。どれもこれも、ひとつひとつ時間をかけて目に焼き付けたいものばかりだった。
会場には、ところどころに空海が残した言葉が記されたものが設置されていた。その中でもっとも私が心惹かれた言葉がこちら。
【杳杳(ようよう)たり 杳杳たり 甚だ杳杳たり 道をいい道をいうに百種の道あり。書(しょ)死(た)え、諷死えしかば本何がなさん】(秘蔵宝鑰)
(意訳):広く深く、広く深く、きわめて広く深いことよ。さまざまな道を説くのに百種の道がある。それらを書くことなく、暗記することもなければ、教えの根本をどうして伝えられようか。
密教を伝えるために、仏画、仏像、曼荼羅で視覚的に表現した空海。そのひとつ、ひとつを見た後の私に、この言葉は深く響いた。
弘法大師空海は、密教最高の位・阿闍梨であり、書家、詩人、文筆家の顔を持つ。曼荼羅を描き、仏像を彫ったという空海は、アーティストとしてもその才能を極めている。
「空海は、マルチクリエイターだ!」
素晴らしい展示を見た後、会場を出たときの私はその才能に魅了されていた。
今だから感じられるもの
これまでの人生で、こんなにも空海の情報をインプットしたことはなかった。
もし、20代のときに赤札授与の大開帳のことを聞いても、川崎大師に行くことはなかったと思うし、奈良まで空海展を見に行くこともなかった。
30代だったら、興味は持ったかもしれないけど、今回のように行動にうつしたかはわからないし、空海展に行ったとしても、今回私が感じたような感想とは全く違うものを感じただろう。会場を出た後に今回のように余韻に浸ることもなかったはず。
年齢を重ねてきたからこそわかることがある。それは、どんなことも”今だよ”というタイミングがあるということ。
私は今だからこそ、赤札をもらいに川崎大師まで行くことができたし、空海展で多くの刺激を受けることができた。それは、46歳の今だからこそ感じられるものばかりだと思う。
人生には、この年齢に達したことでようやく得られる体験というものがたくさんある。