今しかできない経験
娘が通う小学校は、前期・後期制。今週から、5年生の後期がスタートした。
最初の緊急事態宣言中に小学校入学を迎えた娘は、この5年間、ずっと黙食で給食を食べてきたが、この前期で給食の黙食が終了し、後期からはみんなで机を合わせ、向かい合いながら食べて良いことになった。
後期の初日、「今日から、楽しい給食だ~!」と言って出かけていく娘を見送ったら、涙が出そうになった。
ある時、娘と一緒に「学校の給食」というドラマを見ていたら、「前は、こんな風にみんなで向かい合って給食が食べられたの? いいなぁ。楽しそう。こんな風に給食を食べてみたい」と言った。
その言葉を聞いた瞬間、涙が溢れてきて自分でも驚くほど泣いてしまった。私にとっては当たり前の風景が、娘には特別なものに見えている。コロナ禍によって、娘は、”今しか経験できないこと”をたくさん逃してしまっているのではないだろうかと思えてならなかったから。
でも、「みんなで一緒に食べたから、給食がいつもよりおいしかった!」と嬉しそうに話す娘の笑顔を見て、そんな気持ちは吹き飛んだ。
当たり前の日常が戻ってきた
緊急事態宣言中に入学を迎えた娘が、小学校に通えるようになったのは6月になってからだった。それも、最初の1ヵ月は、数人ずつ分かれて登校するというスタイルで。新しくできたお友達の顔はマスクで半分隠れた顔しか知らないまま学校生活が続いた。
「元のような生活に戻る日が来るのかな。マスクをせずに外に出られるようになるのかなぁ」
あの頃、何度も交わした会話。どうしたってネガティブな思考になりがちだったように思う。
でも、気がつけばコロナ禍前のような日常を当たり前のように過ごしている。
マスクを買うことさえ困難で、窓から見える景色に人が全くいないという生活をしていたことのほうが、今となってはまるで夢だったように感じる。
当時、「もう二度と、あの頃みたいには戻れないんだろうな」と思っていたことのほとんどは、当たり前の日常として戻ってきたし、ようやくではあるけども、「こんな風に給食を食べてみたい!」という娘の願いが叶い、より学校生活が豊かになっていくのを見られていることもうれしい。
あの経験をしたことで、当たり前の中にある小さな幸せや喜びを、より大切に感じられるようになったことは確かだ。
生きている限り、人生は可能性に満ちている
私はこれまで、「小学生だから経験できること」「20代だからこそ経験できること」「40代になったからこそ経験できること」と、人生には、どの年代にも、その時にしか経験できないことがあると思って生きてきた。
けど、この時代、そういう考えに囚われるよりも、「何歳になっても、新しい経験への扉は開く」というマインドでいたほうが、新しい視点や価値観が生まれるような経験ができるのかもしれないと、これらの体験を経て感じるようになった。
タイミングを限定してしまうと、つい「私には無理だった」「もうチャンスがない」と言う気持ちになりがちだけど、コロナ禍で得た、「人生、何が起こるかわからない」という学びや、タイミングを逃したと思っていても、その気になればいくらでもそのタイミングは自分で作ることができるという気づきは、生きている限り、人生は可能性に満ちているということを教えてくれた。