多いだけで決めていいの?
何で数が多いだけで勝ちなの?
何かを決めるときによく使われる『多数決』。できるだけたくさんの人の承認を得たものを選ぶ、という民主主義においてよく使われるものごとの決定方法です。
でも少数側だって国民です。多い側の意見だけを尊重するのは本当の民主主義とは言えないんじゃないのかなぁと私はよく思っています。
私自身は左利きや発達障害などの部分において少数派に属しています。少数派の声って多数派に比べると本当に尊重されない……という怒りのような感情は、昔からずっとありました。
私が小さい頃は左利きは矯正することがほぼ当たり前だったので、左を使う度に「右手を使いなさい」と怒られました。右手は使いづらくて、日々辛かったです。
右利きの皆さん、考えてみてください。生まれつき使いやすい手が自分でわかっているのに「周りがみんなそうだから」という理由だけで利き腕を使うことを否定される環境。とても理不尽だと思いませんか。
発達障害と呼ばれるものも、大半が『多数派にとって受け入れがたい価値観』とか『多数派が当たり前に出来ることが出来ない』ことだったりします。
「大抵の人はそんなこと考えない」とか「みんな出来るんだからアナタも出来る」とか言われて自分自身の考え方や苦手なものを多数派の人によく否定されました。
でも、私は生まれつき左手の方が使いやすいし、大抵の人が考えないようなことも私にとっては当たり前に考えることだし、みんなが当たり前に出来ることでも私には頑張っても出来ないこと。大半の人がそうなんだから、というのは大概「普通◯◯でしょ」ということばに集約されます。そんな環境で育ってきたので、私は物心ついたころからずっと「普通ってなんだよ」と思っていたように思います。
最近は左利きを矯正しない風潮に変わっていますね。
左利き用のグッズもかなり増えたし、右利きでも左利きでも使いやすいユニバーサルデザインも増えました。最近、駅の改札を電子ICを使って通過する、ということを初めて体験したのですが、過去、利き腕じゃない手で切符を入れる動きが地味に難しかった私にとってスマホをかざすだけで通過出来る改札はとても快適で感動しました。
多数が勝ち、負けた少数は多数の決定に我慢して合わせるのではなく、本当の民主主義って、こういうことだと思うんです。誰もがしんどくならない中間地点をみんなで模索して見つけていくこと。
発達障害も少しずつ理解が広まっています。理解が広まることで「こうすればうまくいく」ことも認知され、環境整備されるところも出てきました。
多数派と同じに合わせることが「普通」ではなく、誰もが自分らしく当たり前に生きられることが「普通」になって、多数も少数もそれぞれが納得出来るような社会になってくれたらいいな、と日々願いながら発信活動しています。