なんで一方的に評価するの?
なんでオトナからコドモって決まってるの?
3学期制の学校では、そろそろ通知表の季節ですね。
私の子どもたちが通っている学校は前期後期の2学期制なので、冬休み前の通知表がなくてホッとしています。というのも、私が子どもの通知表を見ることがとても苦手だからです。
私は基本的に子どもたちの能力や興味関心について優劣をつけて見たくはありません。
でも、通知表では能力の優劣が見えてしまいます。算数がAで国語がBとか、能力を一覧にされて並ぶことによってどうしても劣っている部分が目に入ってしまうんですよね。
『すべてが優れているべき』と思っているわけではなく、何というか……劣っている部分をわざわざ知らされたくないんだよなー、と思ってしまうのです。
私は『人は誰かに認められたときに意欲的になれる』と思っています。逆を言えば『認めてもらえないと感じたときは消極的になる』ということです。
全体を見たときにAを見て喜び意欲的になれるか、Cを見て落ち込み消極的になるかは性格もあるでしょう。ちなみに我が家の夫婦の性格で言うと夫は前者、私は後者ですが「Aが嬉しく、BとCは嬉しくない」という感覚は共通しています。
そもそもAやBの判断自体が担任個人の主観的なものでしかなく、担任が変わって全然違う評価になることもよくある話。そんな評価になんの価値があるんだろう? と思うのです。
また、子どもだけでなく先生にも得手不得手はあるはず。全教科をひとりが教える小学校においては教えるのが得意な教科、苦手な教科もあるでしょう。
そこで、逆に子どもから先生に「国語の授業はAだけど、理科はB」のように評価するシステムを作れるとしたら先生は評価されたいと思うでしょうか。子どもからB評価、下手したらC評価をつけられたとき「もっとがんばろう」なんて思えないと思うんです。
そう考えると一方的に先生が子どもを評価すること自体がちょっとおかしいと思いませんか? そもそも1人の人間の能力を他者が数字や記号で評価し、受け取った側がその評価に振り回されて一喜一憂するなんておかしいことだと私は思うのです。
私は通知表がすべての教科を並べた相対評価なのが良くないんじゃないかな、と思っています。全部並べれば個人の能力の中で優劣が見えるのは当たり前なので、例えば「あなたのいいところベスト3」みたいに、いいところにだけスポットを当てて伝えるとか。
こんなことを言うと「自分のいいところだけ見て悪い部分から目をそむけてはいけない」なんて言う人もいそうですが、自分が出来ない部分って案外人から指摘されなくても自分が痛いほどよくわかっているものです。
それよりも自分が当たり前に出来ることほど案外自分では見えません。だからこそそれを伝えてもらえることは、誰だってきっと嬉しいはずです。
好きや得意なことを意欲的に頑張れるとき、苦手も一緒に引っ張られて伸びるというのはよくある話。人に教えてもらった『自分のいいところ』を伸ばしたい!と本人が積極的に思えるような通知表なら、私は喜んで読みたいなぁと思っています。