なんで、みんなイヤなのに続けるの?がんばるの…?
みんな嫌でも頑張ってるの?
誰もが嫌がっているのに何となくやっていることってありますよね。
そして、それをやりたがらない人が出てきたとき「みんな嫌でもやっているのにズルいぞ」となる。
「嫌だけど給料がいい」とか、嫌でも頑張ったなりに見返りがある場合もあります。
しかし「みんな嫌でも頑張ってる」という牽制が発生するものは、大抵、無償なのです。
町内会・PTAあたりがわかりやすいかと思いますが、こういうのって惰性で昔から続いている活動が多かったりしますよね。惰性だから活動の中身も古いまま変わっていなくて、でも続いているものだからやめるにやめられなくて何となく続いている。
やりがいも面白さもないのに頑張っても無償だから大半の人が嫌々やるものになる。
勉強も同じなのだと思います。
惰性で続く宿題の内容は、漢字の書き取りや計算問題の繰り返し。
「しっかり勉強しておけば将来楽になる」という、根拠のない言葉。
テストで良い点を取ったって、特に報酬もありません。
“やらされている”という意識を持ってなにかに取り組むとき、人はあまり意欲的になれないものです。それは、仕事も勉強も同じです。
それが無償となると殊更しんどい。
自分だけしんどいのは嫌。だから周りにもやめさせたくない。
そして意欲がない事は仕事の質も下げるので、単に悪い仕事の量産にもなりかねません。
でも“やりたくてやる”人は、周りの誰がやめたって気になりません。
自発的にやることは生産性があがります。学びも吸収力が段違いに上がります。
楽しく出来るようになると、報酬の有無すら案外気にならないこともあったりします。
『みんな嫌でも頑張ってる』という惰性で続く仕組みは解体し、自らやりたくなるような仕組みを増やしていけたらいいですね。