「優しい子」は、親として何よりうれしい言葉
この春、中学生になった娘の夏休みが始まった。そして、夏休みになったと同時に、初めての三者面談があった。
小学校までは、担任の先生と私の二者面談だったので、娘も一緒にいる面談に私が少しドキドキしながら向かった。
先生は、4月に入学してから、夏休みまでの娘の学校での様子を伝えてくれながら、
「優しい子です」
「周りのことによく気がつきます」
「クラスメイト同士のトラブルがあると、間に入って解決してくれます」
「クラスにとって、なくてはならない存在です」
と、娘のことをたくさん褒めてくれた。
親として、これ以上ないくらいうれしい言葉ばかり。
「そんなふうに学校生活を送っているんだ」と胸が熱くなった。
一方で、私は少しだけ複雑な気持ちにもなってしまった。
それは決して、娘の優しさを否定したいとかではない。むしろ、その優しさを誇りに思ってはいる。
ただ、セッションでたくさんの人の話を聞いてきた私は、「優しい人」が抱えやすい苦しさも知っている。
だからこそ、娘の成長を見守る中で、「どうか、自分を犠牲にする優しさだけは覚えないでほしい」と願っていた。
優しさと自己犠牲は、よく似ている
このコラムを読んでいる方の中にも、「優しいね」と言われてきた人は多いのではないだろうか。
セッションで出会う人たちの中にも、「人のために頑張り続けてきた人」が本当に多い。
空気を読むのが得意で、人の気持ちによく気づき、頼まれると断れない。周りからは「優しい人」と言われる。
でも、その優しさの裏側には、
「私が我慢すれば丸く収まる」
「私さえ頑張ればいい」
「迷惑をかけてはいけない」
そんな思い込みが隠れていることも少なくない。
気がつけば、自分が何をしたいのかより、「周りがどう思うか」を優先することが当たり前になっている。
もちろん、人を思いやることは素晴らしいことだ。困っている人に手を差し伸べられる人って、実はそうたくさんいないから。
でも、自分の気持ちを押し込めながら続ける優しさは、いつか心を疲れさせてしまう。
優しさは、美徳だ。けれど、自分を犠牲にしてまで守るものではないと私は思っている。
娘には、自分も大切にできる人になってほしい
もちろん、娘には優しい人でいてほしい。でも、それと同じくらい、「私はこうしたい」と言える人になってほしいと思っている。
誰かが困っているから助ける。それは素敵なことだ。でも、自分が苦しいときには、「今日はできない」と言ってもいい。
無理をして笑わなくてもいい。
嫌なことには、「いやだ」と言っていい。
そんなふうに、自分の心の声にも耳を傾けられる人になってほしい。
子どもは、大人が思っている以上によく周りを見ている。
親がいつも我慢していたら、「優しい人とは我慢する人なんだ」と学ぶかもしれない。
親が自分を大切にしていたら、「自分を大切にしてもいいんだ」と知ることができる。
子育ては、子どもに何を教えるかだけではなく、大人がどう生きるかを見せる時間なのだと思う。
三者面談の帰り道、娘の手をつなぎながら、私はあらためて思った(娘はまだ手をつないでくれる)。
人に優しくできることは、本当に素敵な才能だ。だからこそ、その優しさを自分自身にも向けられる人になってほしい。
誰かのためだけではなく、自分のためにも生きられる人に。
それはきっと、娘だけではない。「優しいね」と言われながら頑張ってきた、すべての人に伝えたい願いでもある。



