「信じる」とは何か?
以前、「信じる」とは「技術」だよね、という記事を書きました。
そこに記したように信じるとは、
・待つこと
・責任を負う覚悟を持つこと
の2つだと考えています。
横から口出しをしたり、途中で手を出したりしないで最後まで「待つ」こと。
そして、失敗してしまっても最後には「責任を負う」という覚悟を持つこと。
この2つがあるから、人は相手に「信じてもらえている」と感じるのだと思うのです。
大人でも同じです。任せた仕事に対して横から口出しをしたり、失敗したら「ほら、だから言ったじゃん。どうするんだよ?」と責任を一方的に負わされることになるなら。部下は上司を「信じてもらってる」なんて思えません。
もう少し深堀りしてみると。
じつは、自分の中に「これは曲げられない」という信念がなければ、人を信じることはできません。
たとえば。
動画やゲームの視聴が止まらない子ども。
「ゲームは9時までだよ」と約束したのにも関わらず、時間を過ぎても終わらない。
「自分で気がついて辞めるまで『待つ』」と言うのは、本当にいいのでしょうか。
もしも、いつもはちゃんと時間通りに守れているのなら、少し待ってみてもいいかもしれません。それはちゃんと信頼の積み重ねがあるから。
けど、いつも守れていないのだとしたら、それ以上待つのは「待っている」のではなく「放置している」と言うことになります。
声を掛けることと、声を掛けない判断の違いはどこにあるのでしょうか。
それが自分の中の「信念」が拠り所になると思うのです。
「約束は守らなくちゃダメ」という信念が、もし自分の中にあるのなら。
約束を守るよう、しっかりと伝えればいいのです。
「待つ」とは「まだ時間になってないのに、何度も何度も口うるさく『9時までだよ、わかってる?』などと言わない」ことです。
「言いなりになる」とは何か?
一方の「言いなりになる」とは。
「判断を相手に委ねる」ことに他なりません。
言いなりになっている状態だと、信念も揺らいでいるし、責任を負う覚悟も持てません。
表面的にはどちらも「子どもの言うことを受け入れている」と思えるかもしれません。でも、やはり「信じる」とは全く違うことなのです。
他人の目線で俯瞰するとよくわかる
それでも、もし自分が「信じている」のか「言いなりになってしまっている」のか解らなくなってしまったら。
その状況を他人の目線で俯瞰して見てみると、よくわかります。(これをメタ認知と言います)
A:子どもに何を言われてもただそのとおりにするのではなく、話し合って解決策を見出したり、ときには妥協したり、貫き通したりすることもある。けど、ダメなことはダメと伝え、良いことは良いと自分の意見を言うことができる関係。
B:子どもが言うことだから、この子のためになるからと、子どもの言う通りに何でも受け入れている関係。
AとBでは、どちらが子どもを「信じている」関係でしょうか。
「妥協したり」「貫き通したり」と一見、ブレているように見えるかもしれませんが、Aの方が子どもを信じているように見えるのではないでしょうか。
子どもの言うことを受け入れているかどうか、というのは本来は枝葉の話なのです。
受け入れることもあるし、突っぱねることもある。どちらかに偏り過ぎるのではなく、自分の信念に照らして判断できることが「信じる」へと繋がるのだと思います。
人を信じる=自分を信じる
信じるとは、相手を信じている自分を信じる、ということ。
相手を信じようとしている自分自身に、確信が持てなかったら相手を信じることは難しいのです。
でも「正しい結果を出せるかどうか」が問題なのではありません。
「色々あると思うし、失敗も多いと思うけど、とにかく最後まで付き合うよ」という気持ちを持てるかどうかです。
つまり「責任を負う覚悟を持つ」ということなのです。