現代社会における「普通」
地域の特色や家庭水準による違いはありますが、数十年前と今を比較すると、子どもに与えられる選択肢は増えてきています。
職業は自分で選択し、女性も当然社会で働く時代。「多様的な社会」の名の下、正解の進路はありません。
選択の自由は夢を掴むチャンスになりえます。
しかし一方で、幅広い可能性の中から自身の才能と限界を見極め、悔いのない選択をしなければならない辛さもあるんです。
今の社会では、「普通」が見えづらく、何にでもなれるからこそ感じるプレッシャーがあるように感じます。
「普通」がわからない社会で生きていくためには「選択肢の多さ」と「自由」に負けない精神力が必要になってくるんです。
親から求められる「普通」と「個性」
今の子は「個を大切に」「個性を伸ばす」スローガンの下で育ってきています。
学校も家庭も、「個性を活かす」教育への関心が高くなっているんです。
「いつも人の後ろについていくところがあるので、リーダーシップを取ってほしい」
「何か一つ、何でもいいからこれだけは負けないというものをもたせたい」
「自信がない子なのでこれだけは自分ができるというものを身に着けてあげたい」
我が子を案じる親御さんにとっては、もっともな願いだと思います。
ただ、よくよく考えてみると類まれな才能を発揮できる子も、リーダーになれる子もほんの一握りにすぎません。
また仮に得意なことが見つかったとしても、やはり上には上がいるもの。
”自分にしかできない何か”を身に着けてほしいという願望はプレッシャーとなり、自信のなさに拍車をかける可能性すらあります。
一部だけアメリカナイズされた現代社会では、「誰にだって才能はある。個性をもって生きる重要性」を推しています。
一方、「周囲から浮いてはいけない」日本文化的主張もまだまだ根強く残っています。
一見普通の子でありながらも、社会に評価される個性や才能をもちあわせてほしい。
子どもからすれば、無理難題を押し付けられている感覚にもなります。
成績や数値に表される特技や、クラスの中での明確な役割を持っていなくても、日々の生活を着実に積み上げている姿に目を向けてみてください。
主張少なく目立たずにいられる子がクラスの平穏を支えています。
社会では、淡々と業務をこなすのが得意な人が生活の基盤を保ち、ブルーカラーの仕事が国民を生かしてくれています。
本当の意味での「個」に目を向け、想像力を働かせることが、今大人に求められている配慮だと感じます。
自分の中にある「普通」との葛藤
個性や才能どころか自分が持っているのはコンプレックスばかり。
”みんなと一緒”でありたい一方で、個性がないとつまらない子と思われる。
普通とは違うコンプレックスは捨てたいけど、特徴のない自分にいやになる。
アイデンティティの形成途中にある思春期は矛盾との戦いです。
揺れ動く思春期の根底には、物事を白か黒かはっきりさせようとする考えがあります。
思春期の子と関わるときに思い出したいのは、本人にとっての「普通」は「平均」とイコールではないこと。
一人一人が思う「普通」はとても主観的で一時的なイメージです。
まずは本人が感じている「主観的な普通」に寄り添って話を聞くのが大切です。
そして、できている面を認めながら、向いていない物事に折り合いをつけていく支えが必要。
可能性を広げ続ける関わりのみでなく、不得手を飲み込み、生き方を絞っていく「折り合い」を身に着けていく時期なんです。
揺れ動く気持ちを理解する
「普通」を求めながらも「自分らしさ」を探したい。
親や社会に求められる理想には反発したい。
ただ、どこに答えがあるのかなんてわからない。
葛藤の渦中にいる思春期世代との関わりに難しさを感じるのは当然だと思います。
悩んでいても親には話してくれないと、寂しくもどかしい気持ちにもなりますよね。
ただ、彼らが必要としているのは「自立と甘えの狭間に揺れる心を理解してくれる大人」に他なりません。
焦りや不安に巻き込まれず、試行錯誤する大切な時間を温かく見守っていけるといいですよね。