子どもを”ちゃんと”困らせているでしょうか??
親としては「学校で子どもが困ったりしないように”ちゃんと”サポートをしてあげないと」と思いがちです。
ぼくも自分の子どもが忘れ物をしたりして、勉強ができなかったり不安になったりしないように、とよく心配をしていました。
ただ、そうした「先回り」が本当に子どものためになるかどうか、少し考え直してみてもいいかもしれません。
「子どもが忘れ物しても、届けないでください」の真意
先日、娘の通うスクールの保護者会がありました。
そこで先生が保護者にこんな話をしてくれたのです。
「子どもが忘れ物をしても、届けに来ないでください」
参加していた保護者同士、顔を見合わせながら「どういうことだろう? 授業中に入られたら迷惑ってことかな?」などとその真意を考えていた時。
「忘れ物をすることは、子どもにとって大切な『学び』のひとつです」
先生はきっぱりと、そしてハッキリと断言しました。
「忘れ物」が「学び」???
子どもは、忘れ物をしても「親に電話すれば持ってきてもらえる」と思えば、その失敗からは何も学びません。親と先生に少し叱られておしまいです。
でも、忘れ物をして「ノートがない! 困った。どうしよう、先生に言おうか? 何かで代用できるかな? 誰かに借りられるかな?」と必死に考えれば、「忘れ物をしたときに、どうリカバリーするか」の学びにもなります。
それだけじゃなく、「どうしようもなかった」「すごく困った」という経験は、「もう忘れ物しちゃだめだ」「どうすれば忘れ物しなくて済むかな?」と自分ごととして真剣に考えるキッカケにもなると言います。
親に電話をしても「自分が忘れたんだから、自分でどうしたらいいか考えなさい」と言うことは、「冷たい」のではなく、しっかり失敗と向き合う機会を奪ってしまわないということでもあるのだなぁと、しみじみと思いました。
自分の失敗を、自分で受け止めること
情けない話ですが、ぼくは子どもの頃。何度も自分の失敗を「親のせい」にしていました。
「忘れ物をしたのは、親がちゃんと入れておいてくれなかったからだ」
「玄関に置きっぱなしにしてたから心配したのよ」「見つけたんだったら届けてくれればいいのに!」
当時、自覚はありませんでした。でも自分の失敗を自分で受け入れることができなかったのだなと反省しています。
二言目には「親が〜」と、他人のせいにしているようでは同じ失敗を繰り返すのも無理はありません。
ただ、親になったいま思うのは。
「子どもが困らないように先回りしてしまいがち」だなということです。
「宿題やったの?」「忘れ物してない?」「プリント見た?」「これも持っていきなさい」
あらゆることを、思いつく限り先回りして子どもが困らないように、失敗しないようにと手を差し出してしまいます。
これでは、子どもはちゃんと失敗することすらもできないかもなと思うのです。
失敗の差別
子どもに「失敗してもいいんだよ」「失敗したって大丈夫だよ!」「失敗するから成長するんだよ」なんて、大人は言います。
でも、その失敗って「挑戦した結果」の失敗のことばかりをイメージしていないでしょうか?
今日の話に出ている「忘れ物」をはじめ「転んだ」とか「お店で大騒ぎして怒られた」とか、一見しなくてもよさそうな失敗って「失敗してもいいんだよ」の中に含まれていない気がするんです。
ぼくはそれを、失敗の差別だなと考えています。
してもいい失敗と、する意味のない失敗を無意識に分けてしまう。
けど、どんな失敗だって大切な学びのチャンスに変えることはできるはずです。
わざわざ失敗する必要はないけど、子どもがやってしまったとき、ただイライラして怒るのか、これはこの子にとって何かを学ぶ機会だと思って叱るのかでは、ずいぶん接し方も変わるはずです。
「忘れ物をしても、届けないでください」
はっきりとそう断言してくれる先生は、
「子どもに忘れ物をさせないでください」「子どもが忘れ物をしたらすぐに届けてあげてください」って言う何倍も信頼できるなと思いました。
だって、忘れ物して子どもが困って右往左往してたら、先生はすごく大変なはずで。それでも、この経験がこの子の学びになるって考えてくれてるってことだから。
なんでも先回りして、子どもが「困らない」ようにするだけでなく。
子どもが「ちゃんと困る」経験をさせてあげられるって、大事なことだなと思うんです。