第43回 佐藤千佳子(15) 自分の人生に振り落とされないようにしなくちゃ
千佳子が電車で出かけた帰り、駅前からバスに乗らず、自宅まで30分ほどの道のりを歩くことにしたのは、このところ運動不足だからという理由だった。
久しぶりに駅前の大通り沿いの歩道を歩いていると、チョークで描いたパンケーキが頭に浮かんだ。
そうだ、あの店に寄ってみよう。
運動不足解消のつもりだったのにカロリー収支が逆転してしまうが、今日はどうしてもあの店に行くのだという気持ちが頭の中のパンケーキとともに膨らんでいく。
駅から一つ目のバス停の前にあるそのカフェを最初に見たのは、駅前で乗り込んだバスの窓からだった。絵本に出て来る森の一軒家みたいな佇まいがとても可愛かった。絵本のタイトルのように思い思いの方向を向いてドアの上に並んだアルファベットを読み取ると、「kirikabu」。それが店の名前らしかった。
「きりかぶ」。
その4文字から、ゆったりした時間が流れる店内を想像できた。
駅の反対側にできた洋菓子店まで文香の誕生日ケーキを買いに行った帰り、「新しいカフェができてる」と目を留めたから、十か月ほど前のことだ。
近いうちに行ってみたいと思いながら、なかなか機会がなかった。一度、店の前を歩いて通りかかったことがあった。店の近くにある銀行で用を済ませた帰りだ。
バスの中から見たときは気づかなかったが、店の前に置かれた切り株の上に、ティーカップの形をした黒板が立てられていた。チョークで描かれたパンケーキがとてもおいしそうだった。たっぷりのホイップクリームと果実の粒が残ったベリーソース。彩りのミントが鮮やかで、完璧な姿をしていた。
きっとテーブルや椅子やカップも、わたしの好きなものだらけに違いない。お客さんはほとんどが女性一人で、パンケーキを待つ間は本を開いている。レジの近くにある本棚には店主が選んだ絵本が並んでいる……。
千佳子は想像を膨らませ、重みのありそうな木のドアの向こうをのぞいてみたい衝動にかられたが、パートに行く時間が迫っていた。
また今度、時間のあるときに。
チョークで描かれたパンケーキに未練がましく目をやり、店の前からバスに乗り込んだ。
それが春先のことだった。あの日着ていたマスタード色のカーディガンをまた引っ張り出している。あれから夏が過ぎ、秋になり、季節2つ分、半年も経ったのかと驚く。学校行事も夏休みの予定も縮小されたりなくなったりしているのに、一昨年より去年、去年より今年のほうが時の流れが早く感じられるのが不思議だ。
時間は年齢分の時速で過ぎるという説をパートの先輩の野間さんが唱えている。
「私なんて時速60キロ超えなんだから、自動車並みの速さで人生を駆け抜けているわけ。そりゃあ人の顔も忘れるし、髪も抜けるし、ボロボロこぼれ落ちるわけよ」
野間さんは冗談めかした言い訳に時速説を持ち出すのだが、その説にあてはめると、文香の時間は時速13キロ、千佳子の時間は時速43キロということになる。
オリンピックの陸上競技の短距離走で金メダルを獲った選手の時速が約45キロらしいと、これも野間さんが教えてくれた。時速43キロは、自力で駆けるには人間離れした速度だ。
「自分の人生に振り落とされないようにしなくちゃ」
思ったことがそのまま口に出たのを耳で受け止め、我ながらいいフレーズだと千佳子は満足する。気ぜわしさを自覚する今日のような日こそ、「きりかぶ」で深呼吸する時間が必要なのだと思う。
あれ、通り過ぎたかなと振り返ると、「きりかぶ」の前にあるバス停が100メートルほど後ろに見えた。
木のドアにもティーカップ型の黒板が置かれた切り株にも気づかなかった。考えごとをしていたせいだろうかとバス停まで引き返すと、そこにはドラッグストアがあった。
「きりかぶ」は跡形もなく消えていた。木のドアも切り株もティーカップ型の黒板も「kirikabu」の文字もどこにもなかった。
バス停の位置が変わったのだろうかと思い、周囲を見渡したが、「きりかぶ」の3軒隣にあった銀行とバス停の位置関係は変わっていなかった。
新しい店が入っているということは、「きりかぶ」が閉じてから数か月は経っているということだろうか。それでもすぐには納得できず、ドラッグストアの前を行ったり来たりした。
最初はパンケーキを食べ損ねたことに打ちのめされていたが、だんだん、一度も店を訪ねることなくその機会を逃してしまったことへの後悔が押し寄せた。いつかそのうちなんて思っているうちに店は消えてしまうのだ。行きたいと思ったときに行っておかないと、つかまえそびれてしまう。人だって同じだ。
ついさっき、「自分の人生に振り落とされないようにしなくちゃ」と思ったが、まさに振り落とされているではないかと思った。自宅からバス停まで歩いて5分。バスに乗って5分。10分ちょっとあれば来れる距離。1時間あれば、カフェで1時間過ごして往復できたのに、時速43キロで流れる日々に押し流されて、その時間を作れなかった。
取り返しのつかないことをしてしまったように思えて、千佳子はドラッグストアの前で立ち尽くす。
と、千佳子と同じように立ち尽くしている女性がいた。
顔は千佳子のほうを向いているが、千佳子には気づいていない。点字ブロックの上で白杖が止まっている。
パート先のスーパーのお客さんのカズサさんだ。
次の物語、連載小説『漂うわたし』第44回 佐藤千佳子(16)「においと音で描く地図」へ。
イラスト:ジョンジー敦子
編集部note:https://note.com/saita_media
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