第92回 佐藤千佳子(32)焼きいもを分け合う誰かがいれば
千佳子が夫の実家の前で自転車を停めると、灯りのついた一階の居間から笑い声がした。義父と同年代と思われる男性たちの声だ。「佐藤さん」と呼びかける声にも、応じる義父の声にもお酒が混じっていた。
なんだ、お義父さんも心配いらなかったんだ。
拍子抜けすると同時に体から空気が抜けていく感覚に見舞われた。わたしという存在を内側から支えている張り合いのようなものが抜け、ここで何やってるんだっけという空しさに襲われる。
ペダルを力なく漕いで元来た道を引き返すと、ピザのデリバリーのバイクとすれ違った。届け先は確かめなかったが、義父が注文したのだとしたら、考えることが義母と同じだ。ふたりは似たもの夫婦ということになる。
宙に浮いた焼きいもと気持ちを持て余したまま家に帰りたくなかった。空の暗さと風の冷たさに帰宅をうながされた人たちが去った公園に自転車を停め、街灯に照らされたベンチに腰を下ろす。おしりがひんやりするが、今の自分の状況のほうが寒い。
紙袋に一本ずつ入った焼きいもをエコバッグから取り出し、右手と左手に持つ。手のひらにじんわり伝わる温かさがドンマイと慰めてくれているように感じる。右のいもと左の焼きいもを、かわるがわるかじる。ねっとりとした甘さにまた慰められる。焼きいもが口の中に消え、胃に落ちていく。義父に抱いた同志の念と、それを分かち合おうとしたおめでたさも一緒に。
口の中の水分が奪われていく。お茶が欲しい。
「ママ?」
文香の声と同時に自転車のブレーキ音が聞こえ、千佳子は焼きいもから顔を上げた。
中学校の名前が背中に入った長袖のジャンパーとジャージ姿の文香が自転車にまたがっている。バスケ部の練習の帰りだ。
「ふーちゃん」と娘の名前を呼びたいが、焼きいもで口がふさがっている。
「ふーちゃん、お茶買ってきて」
焼きいもを持った手でお茶を飲む仕草をして、訴えた。
「お茶?」と文香が察してくれ、力強くうなずくと、「待ってて」と文香は自転車を走らせた。少し先にコンビニがあったのを千佳子は思い出す。
文香が戻ってくるのを待つ間も惰性のように焼きいもの続きを食べる。さらに水分が欲しくなる。何もかも渇いている。
温かいお茶を2本買って文香が戻って来ると、隣に腰を下ろした。千佳子は焼きいもの一本を文香に預け、ふたを開けてもらったペットボトルを受け取る。
親子で片手に焼きいも、片手にお茶。
お茶を飲み、ひと息つくと、「何やってんだろ」とおかしくなって笑いが込み上げた。
「ほんと、ママ何やってんの?」と文香が笑いながら突っ込む。
「大人のゼイタク」
「何それ?」
「じいじのうちに行ったんだけどね」
文香と話すときは義父のことを「じいじ」と呼ぶ。
「じいじ、いなかったの?」
「いたんだけどね」
けどね。けどね。
早い話が、アテが外れたのだ。圧倒的に正しく、ど真ん中を歩いている義母に歯が立たない置いてけぼり同士で慰め合おうというアテが。
もちろんそんなことは娘には言わない。
「お友達呼んでワイワイやっててさ。邪魔したら悪いかなって。せっかく焼きいも届けてあげようと思ったのに」
努めて明るく当てこすり、一本になった焼きいもをかじると、
「きしょっ」
このところの文香のお気に入りワードが出た。
「気色悪い」を縮め、勢いをつけて「きしょっ」と言う。何度言われてもきつく聞こえてしまうのだが、「ヘン」くらいの軽いノリらしい。寒空の下、日が暮れた公園のベンチで母親が焼きいもを頬張ってたら、そりゃヘンだろう。
お茶をベンチに置くと、片手が空いた。文香に持ってもらったままの焼きいもを引き取ろうとして、
「ふーちゃんも食べる?」と聞くと、
「やだよ。ママの食べかけ」と断られた。
「口つけてないほうから食べたら?」
「じゃあ下半身もらう」
「下半身って」
「下半身じゃん」
文香は紙袋ごと焼き芋を半分に割ると、
「はい、上半身返す」
と焼きいもの上半分を千佳子に差し出した。
「ふーちゃんの言葉のセンスって、面白いよね」
文香はそれには答えず、「うわ、いも甘っ。トロットロ。ほぼ液体じゃん」と食レポを始めた。
千佳子の手元にあった焼きいもも上下で文香と分けた。親子で両手に焼きいもを持ち、右と左を交互に食べる。
「ママ、右と左、どっちがおいしい?」
「どっちも同じじゃない?」
「だよね。どっちもどっち」
「じいじとばあばのケンカみたい?」
「それな」と文香は言ってから、
「本人たちがケンカしたら、どうなるんだろね」と続けた。
「本人たちって?」
「日曜日と月曜日。じいじとばあばは代理でケンカしてるわけじゃん?」
千佳子は驚いて文香を見る。こんなことを考える中学生はうちの子ぐらいではないかと感心する。高校入試が発想力テストで、真っ白な紙に好きなことを書いていいと言われたら、文香は時間が来るまで鉛筆を動かし続けるだろう。
「ママどうしたの?」
「ふーちゃんって天才かもって思って」
「親バカ」
「ママは勉強できる子じゃなかったから」
「バカ親とは言ってないって」
文香は受験生だが、エンジンがかかっているようにはまだ見えない。先月受けた模試の結果が返ってきたが、平均よりちょっといいくらいの数字だった。将来は声優になりたいらしく、進学実績よりも文化祭が盛り上がるかどうか、演劇部があるかどうかを気にしている。
田舎育ちで時代も違う千佳子は、何もアドバイスできない。行けるんだったらいい学校に行っといたほうが将来の選択肢は広がるのではと思うが、都会に住んでいる時点ですでに選択肢は広がっている。高校の数だって桁違いだ。
頭の上で金木犀が香る。
「秋だね」と千佳子が言うと、
「秋だね」と文香も言った。
「モブキャラに秋がしみる」
「何それ? 漫画のセリフ?」
「ママのセリフ」
「ママってモブキャラ?」
「モブでしょ」
「うちにとってはメインキャラだけどね」
「ふーちゃんだけだよ。そんなこと言ってくれるの」
「うちの推しはママだからね」
平たくなった紙袋を畳み、「行こっか」とベンチから立ち上がると、まだ焼きいものにおいがする。金木犀の香りに紛れて気づかなかったが、残り香ではなく、重量感のあるにおい。文香の脇に置いたリュックからだ。
「ふーちゃん、リュックに焼きいも入ってる?」
「うん。じいじに届けようと思って」
千佳子のパート先ではなく、家の最寄りのスーパーで買ってきたという。
「ママと同じこと考えてたの?」
「そうだよ。だからさっき、きしょって言ったじゃん」
言われてみれば、義父母宅に近い公園を学校帰りの文香が通りがかるのは不自然だし、そもそも自転車通学もしていない。そこに思いが至らないくらい腑抜けになっていた。
「どうする? じいじに届けに行く?」
「今から? じいじ、友だちが来てるんでしょ?」
「ママが行っても喜ばないけど、ふーちゃんの顔見たら喜ぶんじゃない?」
「今日はお邪魔かな。パパに持って帰る」
「そうしよっか」
文香の自転車を追いかけて自宅へ向かう。頭の上の金木犀の香りと前を行く文香の自転車からこぼれる焼きいものにおいが混ざり合う。機嫌なんて、焼きいも一本で取り戻せてしまう。それを分け合う誰かがいれば。
次の物語、連載小説『漂うわたし』第93回 伊澤直美(31)「ひなたと日陰の間で」へ。
編集部note:https://note.com/saita_media
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