第68回 佐藤千佳子(24) 透明人間にされたわたしたち
春を待つチューリップの球根は、土を割って顔を出さなくては、存在に気づかれない。蕾を膨らませ、花を咲かせ、「チューリップここにあり」を示せる球根もあれば、土の中に取り残されたままの球根もある。
「優秀な女子どこ行った?って文香が言ってたんですけど、埋もれていたんですね」
千佳子がそう言うと、「埋蔵資源だね」と野間さんが言った。
「埋蔵主婦ですか」と千佳子が応じると、
「埋蔵主婦! 佐藤さんって、ネーミングセンスあるよね」と野間さんが声を弾ませた。
「野間さんが埋蔵資源って言ったのを拾っただけです」
「いいよ埋蔵主婦! 徳川埋蔵金みたいで、お宝感出てる。流行語大賞狙えそうじゃない?」
持ち上げすぎですよと千佳子は謙遜したが、広告代理店にいた野間さんにネーミングセンスをほめられると、悪い気はしない。野間さんは「マイゾーシュフマイゾーシュフ」とおまじないのように唱え、
「佐藤さんも貴重な埋蔵主婦だね」
と千佳子を見た。
「わたし、有能じゃないですよ」
「自分の能力に気づけていないってことも、埋もれてるってこと」
有能だと言われたこともなく、自負もない。結婚や子育てで失われるようなキャリアを築き上げてこなかったので、埋もれているという自覚もなかった。子育てが少し落ち着いて、研究職の夫の薄給を補うために始めたパートで出会った野間さんに掘り起こされて初めて、開けてない扉がいくつも待ち受けていることを知ったのだ。
結婚して。
子どもを産んで。
40歳を過ぎて。
スーパーのパートで。
そんなところに人生の転機が転がっているなんて、思いもよらなかった。
野間さんに出会ってからの、扉を一つ一つ開いて世界がひらけていく感覚は、チューリップに喩えれば、球根から伸びた芽が土から顔を出し、茎を伸ばすのに似ている。自分の伸びしろを伸ばした分、視界が広がり、世の中を見渡せるようになる。
「じゃあ野間さんはわたしのスコップですね。シャベルかも」
「私も佐藤さんに掘り起こしてもらってる」
パセリのクリスマスツリーの成功で、野間さんは広告代理店時代のキャンペーンの醍醐味を数十年ぶりに思い出したと言う。こう仕掛けたら、こんな反応があって、商品がどれだけ動くかという読みが当たり、売り上げの数字に出る。それで時給が上がるわけではないが、あの興奮と手応えをもう一度味わえたことが何よりのご褒美なのだ、と。
パセリのクリスマスツリーのヒントをくれた庭のゴールドクレストは、野間さんのお孫さんが結んだ色とりどりのリボンをほどかれ、新緑の枝葉を伸ばしている。
「そう言えば、クリスマスツリーの打ち上げしてなかったよね?」
野間さんに言われ、「そうでしたね」と千佳子は思い出す。外出自粛ムードと年末の慌ただしさで忘年会もなく年を越し、気がつけば春を迎えていた。毎日をこなしていると、季節単位で時間が流れる。
「今乾杯しちゃう?」
野間さんが冷蔵庫からスパークリングワインを取ってきた。コルクを抜くと、ポン!といい音がした。
「景気いい音、したね」
「しましたね」
ボトルに閉じ込められていた泡が歓声を上げたようにも聞こえる。解き放たれたバンザイをスパークリングワインと分かち合う。
「シャンパングラスじゃないんだけど、このグラスで乾杯していい?」
野間さんがテーブルに出したワイングラスには、蔓を伸ばし、葉を繁らせる葡萄の絵が描かれていた。
「ダンナの退職祝いにいただいたの。広告代理店時代に仕事で知り合って、友達づき合いしてたイラストレーターさんが描いてくれて。これからは夫婦の時間を味わってくださいって。なのにねー」
定年退職の後、関連会社に勤めたダンナさんは、悠々自適の日々を前に突然倒れ、帰らぬ人となった。夫婦の時間を味わうグラスの出番はなかったのだろうと千佳子は想像する。
「ダンナさんと乾杯するグラスだったのに、すみません」
「違うの。そうじゃなくて。置いて行かれちゃったけど、私、楽しくやってる、大丈夫って。このグラスで乾杯したくなる日が来たの! 佐藤さんだからこのグラス出したの!」
野間さんが英語らしい言葉を続けた。「ユーディザービ」と聞こえた。「遠慮しないでよ」のような意味だろうかと千佳子は思い、受け取っておく。
「泡が消えないうちに乾杯!」
「パセリのクリスマスツリー、成功おめでとう!」
野間さんとグラスを合わせ、色とりどりのチューリップに囲まれているゴールドクレストに向かって、「いただきます」とグラスを掲げた。
昼の花見酒はアルコールの回りが早く、野間さんは「ゴールドクレストになったダンナ」のことを「手はかからないけど一緒に旅行に行けなくてつまらない」と愛を込めてなじり、「ダンナの分も長生きしてやる」と宣言し、最後は「だけどやっぱり会いたい」と涙ぐんだ。
大学も就職先も全然違う場所を歩んでいた野間さんと、同じ職場で、同じ仕事をして乾杯できるなんて面白いなと千佳子は思い、ときめきとワインに酔いしれたが、そのお酒の味が間もなく苦みに変わることは予想していなかった。
あくる日、千佳子がパート先のスーパーに着くと、店長が「おめでとうございます」と社員やパートらに送り出されていた。「何かあったんですか?」と聞くと、本部の表彰を受けることになり、表彰式に向かうところだという。店長が評価されるということは、店が評価されるということだ。千佳子も「おめでとうございます」と喜びを伝えた。
しかも、パセリのクリスマスツリーの成功が評価されたという。あれが本部の目に留まったのかと千佳子は小躍りしたが、野間さんは浮かない顔をしていた。
「店長が思いついて、一人でやったことになっているんだって」
バックヤードで千佳子とふたりになったとき、いつもは歯切れのいい野間さんが、言いにくそうに告げた。
「年間個人賞ってやつ。もちろん対象は社員だから、私も佐藤さんも対象外なんだけど、私たち、何も聞いてないよね?」
野間さんに知らせてくれたのは、本部に戻った前の店長だった。店を離れてからも野間さんと連絡を取り合っていて、パセリのクリスマスツリーのことも野間さんから聞いていたので、「店長一人でやったことになってるけど」と確認のメールをくれたのだと言う。
「それは違いますよね?」
「違うよ。店長は勝手にどうぞって黙認しただけ」
パセリのクリスマスツリーを思いついたもののリボン代の捻出が課題だったのだが、たまたま本部から在庫処分か何かで送りつけられたクリスマスリボンを有効活用できることになった。店長はまったく噛んでいないわけではないけれど、発案者も実行者も店長ではない。
「店を代表して店長が表彰されるのは、まあ、ありだとして、私や佐藤さんに一言の断りもなく、しれっと自分一人の手柄にしちゃってるのが、なんだかね」
野間さんの語尾が小さくなる。乾杯のスパークリングのワインの泡がしぼむように、千佳子の気持ちも白けた。地面を割って顔を出して、茎を伸ばして、蕾を膨らませて、広がる一方だと思っていた世界に影が差す。
野間さんが、ため息まじりに言った。
「なんだか、透明人間にされた気分」
次の物語、連載小説『漂うわたし』第69回 伊澤直美(23)「母乳神話のスッタモンダ」へ。
編集部note:https://note.com/saita_media
みなさまからの「フォロー」「スキ」お待ちしています!