第86回 佐藤千佳子(30)勝ったり負けたり人生じゃんけん
ピッ。《飛騨ほうれん草》。
ピッ。《すりゴマ》。
ほうれん草の胡麻和え、いいかも。
商品のバーコードをレジに通しながら、千佳子は夕飯の献立を考える。
今夜は義母が家にいる。ケチャップやマヨネーズが似合うおかずがすっかり定番になり、出来合いのお惣菜の出番も増えているが、義母の口に合うものを出さなくてはならない。明日の朝食も必要だ。昼の分まで買っておけば、明日のパートの後にまた調達すればいい。
ピッ。《豚肉切り落とし》。
ピッ。《玉ねぎ》。
ピッ。《チューブ生姜》。
豚の生姜焼き、いいかもしれない。生姜はチューブより生がいいだろう。すり下ろすのが面倒だけど、手間を惜しまないところを見せるいい機会だ。とはいえ、しばらく続くなら、ペース配分が必要。張り切りすぎると息切れしてしまう。頑固な義父が頭を下げてくるのは期待できないが、義母の怒りはひと晩では冷めないだろう。
野間さんに相談するのは、なんとなく気がひけた。野間さんはダンナさんを亡くしている。義母が転がり込んできた話をすると、野間さんは独り身で自分には夫がいるという違いを強調してしまう気がした。
些細なことに気を配ってしまう性格。わたしだったら「来週の日曜日」の日付を確認する。義母もそうしていれば、1週間が日曜日から始まるか月曜日から始まるかで夫婦喧嘩することもなく、月曜日の朝から息子の家に駆け込むこともなかったのだ。
義母はがさつなわけではない。むしろ丁寧な人だが、自分の流儀が世の中のど真ん中だと思っているふしはある。自分が間違えたら誰かに迷惑をかけてしまうという心配をしてこなかった人なのだ。心配のあまり用心深くなったわたしとは対照的な人なのだ。
義母のことを考えながらレジを打っていたら、上がり時間の5時になった。エプロンを脱ぎ、買い物カゴを持ち、千佳子は店員から客になる。まだ献立を悩んでいる。今日は揚げ物がお買い得になっているが、値引きシールのついた唐揚げをトレーからお皿に移して義母に出すわけにはいかない。野菜も値引きシールがついていないものを選ぶ。
胡麻和えと豚の生姜焼きと、あと一品。きゅうりとタコの酢の物。これに具沢山の味噌汁でどうだろう。品数がさみしいと言われてしまうだろうか。いや、お義母さんはそんなことを言わない人だ。思うかもしれないけど。
玄関のドアに鍵を差し込むと、家の中から声が聞こえた。義母と娘の文香の声。まだ6時過ぎなのに。
「ママお帰り」
リビングのドアを開けると、文香が明るい声で迎えた。バスケ部のジャージではなく私服に着替え、ダイニングテーブルで義母と向き合っている。義母の隣には夫まで帰宅している。夫もスーツからカジュアルな私服に着替えている。
「ふーちゃんどうしたの? 今日早くない?」
「ママ何言ってんの? お昼食べたら帰るって言ったじゃない?」
思い出した。文香と夫は今朝からその格好だった。ふたりで連れ立って出かけて行った。スーパーに小学生の姿が多かったから運動会の振替休日だと思っていたが、今日は日本全国休日だった。「あの人は日曜日も月曜日も家にいるから」という義母の愚痴を聞いて、「うちは平日だから一人になれる時間がある」と思い、記憶が上書きされてしまった。
しかも、敬老の日。
こちらはすっかり忘れていたが、向こうから乗り込んできた。記念の日に合わせて家出したわけではないだろうけれど。
「晩ごはんピザ頼んだよ」と文香が言い、
「ピザ?」 と千佳子は聞き返す。
「ばあばが食べたいんだって」
文香の声が弾んでいる。義母の顔も明るくなっている。聞き上手な文香に話を聞いてもらって、すっきりしたのかもしれない。
そうか。ピザで良かったのか。
千佳子は力が抜ける。普段義父に合わせている義母は、いつもと違うものを食べたいのだ。孫とピザを食べる敬老の日。お義母さんにとっては何よりだ。
なんだ、なんだ、なんだ。それで良かったんだ。
パートの間、悶々と献立を悩んでいたのがバカバカしくなった。
ほうれん草の胡麻和えと豚の生姜焼きときゅうりとタコの酢の物と具沢山の味噌汁は明日に回そう。
買ってきたものを冷蔵庫に納めていると、夫が近づいてきて、「急にごめん」と背中から声をかけた。
「ううん。今日が平日だって勘違いしてた。連絡しなくてごめんなさい」
千佳子も夫も謝り合い、譲り合うから喧嘩にならない。「1週間が日曜日から始まるか月曜日から始まるか」を巡って家出するほどの大喧嘩になるというのは、千佳子から見たらアクロバットだ。だが、結婚して20年近く経つのに一度もぶつかったことがない夫婦ってどうなんだろうとも思う。
「お義父さん大丈夫かな。一人で」
「大丈夫だよ。意外と生活能力あるから」
義父は77歳。老齢による手の震えがあり、動きもゆっくりなのだが、簡単な炒めものくらいなら作れるという。包丁を持つと手の震えが止まるらしい。
「前もなんとかなってたし」
「前にもお義母さん家出したことあったの?」
夫によると、義母は10年に1度くらいのペースで「噴火」するという。前回は実家に転がり込み、その前は大学院生だった夫の下宿に転がり込んだ。いずれも数日の家出だったという。だから今回も数日で終わるのではないかと夫は楽観している。
驚いたことに毎回「1週間が日曜日から始まるか月曜日から始まるか」が喧嘩の発端になっているらしい。
「こうなったら、持ちネタみたいなものだよね」と夫はどこか愉快そうに言う。
「こっちは結婚する前から、かれこれ75年、月曜日始まりでやらせていただいてるんです」
ダイニングテーブルで、義母の愚痴はまだ続いている。というより、繰り返されている。
「月曜日始まりでやらせていただいてるって、ばあばの言い方、ウケる」
同じ話を何度聞いても初めて聞いたように反応できるのは文香の特技だ。高校入試でお年寄りとの会話力が評価されるなら、高得点を狙えるだろう。
「1週間の始まりは月曜だよね? 日曜日の夜に、1週間終わっちゃうなって思うし、月曜日の朝に、1週間頑張ろうって思うし」
「ふーちゃん、それじいじに言って。ふーちゃんがそう言ったら、どうするのかしらね。さすがにふーちゃんには文化人気取りの馬鹿って言えないでしょ」
義父は義母に威張るが、文香には弱い。じゃんけんみたいだと千佳子は思う。
同じ人でも勝ったり負けたり。
同じ日でも勝ったり負けたり。
「これでじいじとばあばが離婚したら、『1週間離婚』って言われちゃうね」と文香がからかう。
「それだと1週間しか持たなかったみたいじゃない。もう48年よ。あと2年で金婚式」
「じゃあ、ばあば、あと2年我慢して。金婚式でおいしいもの食べよ」
「その頃にはあの人、もう歯が全部抜けちゃってるかもしれないけどね。大体あの人、こんな長生きする予定じゃなかったの。私、今頃未亡人になって、好き勝手してたはずなのに、ねえ」
義母が不穏なことを言い出し、「別れちゃう?」と文香が冗談っぽく言う。すると義母は「そういうわけにはいかないわよ」と力強く否定する。
「あの人、私がいないと、何にもできないんだから。今頃、お灸を据えられて、しゅんとしてるはず」
「そういうことにしとこう」と義母に聞こえない声で夫が言い、千佳子は、ふふっと笑う。企みを共有している楽しさがある。
「ウマヤカジみたいだな」と夫が言い、
「ウマヤカジ?」と千佳子は聞き返す。
人の名前のようだと思ったが、「厩火事」という落語があるのだという。夫婦喧嘩して家を飛び出した妻が「あの人の気持ちがわからない」と嘆き、夫の気持ちを確かめようとする話だという。あらすじだけ聞いても、あまり面白いとは思えなかったが、プロの落語家が演じれば、笑えるのだろう。
キッチンで夫と落語の話をすることになるとは思っていなかった。予定は狂うし、予想のつかないことが起こる。期待を裏切られる日もあれば、掘り出し物を見つける日もある。結婚もじゃんけんみたいだ。
玄関のチャイムが鳴る。ピザが届いたらしい。
次の物語、連載小説『漂うわたし』第87回 伊澤直美(29)「記憶の地層から浮かび上がった母」へ。
編集部note:https://note.com/saita_media
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