第113回 多賀麻希(37)ウェディングドレスを着ない未来
新宿三丁目のカフェで初対面の女性に託されたウェディングドレスの白いレース地に刺繍針を進める。
月曜日の午後。モリゾウは出かけ、部屋には麻希ひとり。
モリゾウの前でウェディングドレスを広げるのはなんとなく気がひけて、いない時間を見計らって作業している。これがもしテーブルクロスだったら、隣にモリゾウがいて、手元をのぞき込まれても、何とも思わない。
つまり、意識している。40にもなって。
いや、40だから身構えてしまうのかもしれない。
触れなくても良い話題を目の前に引っ張り出し、今さらだよねとか、関係ないよねとわざわざ確認されて傷つきたくないよねとひとりごち、布を突き差し、針を通す。
今さらウェディングドレス。
今でもウェディングドレス。
刺繍のいいところは、針を動かした跡が残ることだ。針に運ばれて糸が進んだ距離の分だけ、布に色と模様が宿る。点が線になり、茎を伸ばし、葉を茂らせ、蕾を膨らませ、花を咲かせる。それを美しいと言ってくれる人がいる。さらには、手元に置きたいと願い、買い求めてくれる人がいる。
少し前までは。
ケイティにひまわりバッグのデザインを盗まれて以来、ネットショップに新作を並べていない。作ってもいない。針を持つ気持ちにさえならなかった。
数か月の休眠期間を経て、針を動かす仕事が舞い込んだ。先にまとまった金額が支払われた。仕事だから、やるしかない。強制リハビリのようなものだ。
両手がふさがるのも、刺繍のいいところだ。
スマホを開けない。ネットにアクセスできない。ケイティが何を言い、何を言わないのか。ケイティの取り巻きたちが、小さなネットショップにひまわりバッグを一点だけ置いた作家について噂しているのか、無視しているのか。いちいち確かめ、惑わされずに済む。
何を見つけても、何も見つけなくても、心にささくれを刻むだけだ。そんなヒマがあったら、刺繍糸を進めたほうが健全だ。
とはいえ、針を運ぶ気持ちが凪いでいるというわけではない。
ひと針ひと針、布を突き刺し、糸を通すのにあわせて、ふたをしていた気持ちや記憶に抜け道のような小さな穴が開く。
20代の半ば、勤めていた映画製作プロダクションで、服飾専門学校時代に描いたデザイン画と再会した。ケイティの代わりに提出した課題。映画『幸せのしっぽ』の衣装に採用され、「衣装デザイン協力 ケイティ」とクレジットされた。
「これ描いた子に会いました? モデルみたいに綺麗な子だったんです」と麻希が言うと、
「それやったら覚えてへんわ」と関西人の社長は言った。
ケイティの美貌は麻希が会ったことのある人の中ではずば抜けていたが、一年中キャスティングをして、モデルみたいに綺麗な子を見飽きている社長には印象に残らないというのが面白かった。
デザイン画は映画の関係者が選んだのではなく、教授が選んだものを渡されたことをそのとき知った。
「そない言うたら、デザイン描いた子連れて、教授が函館まで撮影見に来とった。あれはデキとったな」
それを聞いたとき、麻希は笑った。ゆるんだネジが飛んで、押し込めていた笑いが弾けたような、けたたましくて品のない笑い方で、あの社長が「どないしたん?」と引いていた。
なんだ、教授とデキてたんだ。ケイティの課題の評価が良かったのも、就職先がすんなり決まったのも、そのせいだったんだ。ケイティが色仕掛けで勝ち取ったのなら、ケイティの実力だ。わたしが得られたはずのものをケイティに奪われたわけじゃない。
それが真実かどうか確かめることなく、麻希は社長が言ったことを信じた。麻希が聞きたかったことを社長が言ってくれたのだ。
社長が夜逃げしてプロダクションが解散になり、職にあぶれた麻希は派遣社員になった。広告代理店系列の制作プロダクションに送り込まれ、証券会社の金融商品のパンフレットの校正を担当したときに「評価額」という用語を知り、同じ金融商品でも評価額は変動することを覚えた。
ケイティの評価額は今どうなっているのだろうと思った。専門学校卒業から10年あまり経っていた。
評価額が下がると、連れて行かれる店が変わる。贈られるプレゼントの値段が変わる。美貌にものを言わせて資金調達できる時代が過ぎたことを、今頃ケイティは思い知っているのだろうかと想像し、期待した。
けれど、それからさらに時が経ち、数十年ぶりにネットニュースで近況を知ることになったケイティは、図太く評価額を上げていた。
ダメだ。スマホを開いていないのに、結局ケイティのことを考えてしまう。
ウェディングドレス職人が「花嫁の幸せを願って、ひと針ひと針、心を込めて縫いました」なんて言っているのは本当だろうか。白いドレスはどうしたって邪念を呼ぶ。
わたしにもウェディングドレスを着るチャンスがあったと次の記憶のふたが開く。
しっぽの衣装デザイン画と再会した前だったか、後だったか、エキストラに駆り出された映画の撮影現場。年の近い美優ちゃんと麻希のどちらかが花嫁で、どちらかが介添人をやることになった。ふたりの意見を聞くことなく、助監督は「サイズ合うかな?」と美優ちゃんにドレスを差し出した。
「いいの?」と美優ちゃんは気を遣ってくれたが、「いいよね?」のニュアンスだった。「わたしがやりたい」と言える雰囲気ではなかった。
主役の背景にボケで写るだけなのに、美優ちゃんにはヘアメイクがついた。ねずみ色のスーツをあてがわれたノーメイクの麻希との落差が広がった。
美優ちゃんはあの後、もう一度、ウェディングドレスを着た。自分の結婚式で。
ずるいよ美優ちゃん。2度も着て。わたしは一度も着ていないのに。
『魚卵パニック イクラ革命』。
不意に映画のタイトルを思い出す。モリゾウと初めて会った日、モリゾウがタイトルに食いつき、観たいと言い、この部屋までついて来た。引き出しにしまっていたはずの関係者試写用のDVDが見当たらず、代わりに見つけたのが『それからのルーズソックス』だった。エキストラで恋人役を割り振られ、後でつき合うことになったツカサ君と出会った作品だ。
『ルーズソックス』は捨てられなかったけれど、『イクラ革命』は捨てたのかもしれない。
『イクラ革命』のタイトルに釣られたモリゾウはあの日からこの部屋に居つき、同居人を経て恋人になっている。
モリゾウとは結婚式を挙げることはないだろうし、モリゾウの隣でドレスを着ている自分は想像できない。
ツカサ君の隣でドレスを着る自分を想像したことはあった。ツカサ君が脚本コンクールで賞を取って、脚本家デビューできることになったら。けれど、それは叶わなかった。
わたしがウェディングドレスを着ることはもうないのだろう。
今さらウェディングドレス。
今でもウェディングドレス。
糸を玉留めして、チョキンと切る。糸でつながっていた麻希とドレスが切り離される。
着てみたい。
ダメかな?
合わせてみるだけ。
ドレスの肩をそっとつまみ、姿見の鏡の前で体に当ててみる。
外出先から戻ってきたモリゾウが映り込み、鏡の中で目が合った。
次の物語、連載小説『漂うわたし』第114回 多賀麻希(38)「ウェディングドレスを上書きする」へ。
編集部note:https://note.com/saita_media
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