第136回 伊澤直美(46)種が芽吹くとき
「黒が白になったってコータが言い出して」
夕方、幸太と出かけていたイザオが帰って来て、別行動をしていた赤組と白組が合流し、一緒に晩ご飯を食べながら「外で何してた」の報告を聞いている。
黒が白になったというのは、駅名のことだ。直美たちのマンションの最寄り駅である「目黒」駅、その三田線ホームに最初に滑り込んだ電車にイザオと幸太は乗り込んだ。それが北へ向かう西高島平行きだった。「目黒」の次は「白金台」。駅名に含まれている色の「黒」が「白」になったと幸太が指摘したというわけだった。
亜子姉さんに連れられて目黒まで来たときはJRに乗って来たので、幸太は初めて見る三田線の駅名の一つ一つを注意深く見ていた。
「そしたら次は白金高輪で、また白だねってなって」とイザオが話を続ける。
「黒、白、白と来たら、次の駅は白か黒かってなるじゃない?」
「なるよね」と直美と亜子姉さんがうなずく。
だが、残念ながら次は「三田」駅で、黒も白も他の色も含まれていない。すると、幸太は、
「黒。白。白。見たぞ」
とオセロの実況でもするように呟いたので、イザオは思わず吹き出した。
「コータすげーな。駅の名前で物語作ってんなって言ったら、そっから駅に着くたびに物語が伸びていって」
「芝公園」駅に着くと、「シバコーという名前の犬が走り回る保育園」を幸太は発明し、「御成門」駅に着くと、先ほどのシバコーのオナラが鳴り止まない門が出現し、「内幸町」駅に着くと、「うち幸い、これ幸い」と唱える謎の集団が現れ、シバコーの後をついて行列となって練り歩いた。
聞いている直美の頭の中では、シバコーは実家で飼っていた雑種のトトの姿になっている。
直美も亜子姉さんも箸が止まっている。晩ご飯は値引きシールのついたパックのお寿司やお惣菜を買って来て、具沢山の味噌汁だけ作った。結衣ちゃんと優亜は30%引きになっていたオムライスを分け合い、スプーンをせっせと口に運んで口のまわりをケチャップで赤くしている。
「『うち幸い、これ幸い』ってどっから飛んできたの?」と直美が聞いたが、幸太は「知らね」と素っ気ない。聞いているのかいないのか、照れているのか、パックのお寿司のねぎとろ巻ばかりを選んで食べている。
「直感だよなコータ?」とイザオが代わりに答え、
「『幸い』は幸太の『幸(コウ)』だね」と亜子姉さんがつけ足す。
「日比谷」駅に着くと、幸太は「ひび屋」という店を誕生させた。
「ひび屋って、ひびを売ってんの?」とイザオが聞くと、
「そうだよ」と幸太は目の前に店が見えているかのように言った。
「ひびを入れたいものに、わざとひびを入れたりするわけ?」とイザオが聞くと、
「月日とか時間だよ」と幸太は言った。
「日々是好日(ひびこれよきひ)の日々だね」と亜子姉さんが言い、「哲学だ」と直美も唸る。
「芝公園辺りで乗って来てコータの隣に座ったおばあちゃんの肩が上下してて、あ、笑ってるって気づいて。駅に着くたびにコータが何を言うか期待してるのがわかったんだけど、ひび屋のときは、ほうって息が漏れてた」
「ひび」と聞いて直美が連想したのは、「HAPPY」の5文字をつなげたオブジェだった。同期入社のタヌキが市販のメッセージオブジェにフェイクの苔を貼りつけ、結婚パーティーの受付に飾ってくれた。その後、キッチンの棚に飾っていたが、産む産まないでイザオとの溝が深まったある日、イザオが怒りに任せて席を立った勢いで棚から落ちて、二つに割れた。
家出したイザオと入れ違いに訪ねて来たタヌキが酔いに任せて接着剤でくっつけたが、つなぎ目がかえって目立つ仕上がりになった。壊れてもキズごと抱きしめてブサイクに進んでいくのが夫婦だと教訓を語っているとも言える。
ひびの中には日々がある。
「日比谷の次は大手町か。あれ、コータ、大手町駅、なんだったっけ」
大きな手の町。直美は大仏を想像する。
「大手町は手紙」と幸太はぶっきらぼうに答え、ねぎとろ巻の最後の一つを口に放り込む。
「そうだ、手紙だ。大きな手紙を待っている大手町」
「手は手紙かあ」と直美と亜子姉さんの声が揃った。
「それで神保町で電車を降りることになって」
「なんで?」
「コータの隣のおばあさんが、ほんとは日比谷か大手町で千代田線に乗り換えなきゃいけなかったんだけど、続きが気になって降りそびれちゃったって言うから、じゃあ神保町で半蔵門線に乗り換えて、表参道で千代田線に乗り換えるのはどうですか。僕らも一緒に行きますよって」
「おばあさん、びっくりしてなかった?」
「うん。どこに行くか決めずに電車に乗ったから、どこに行ってもいいんですって言ったら、ミステリーツアーみたいで良いわねって面白がってた」
「そのおばあさんも相当面白いね」と亜子姉さんが言い、「ミステリーツアーなんて喩え、うちらの母親からは出て来ないよね」と姉弟でうなずき合った。
隣の席のおばあさんに幸太の物語を聞かせるのが移動の目的になり、おばあさんと一緒にイザオと幸太は電車を乗り換えた。
「神保町駅で新キャラの神様が誕生してさ。『神様が保険証を持って町を歩いていました』って」
「神様も保険証持ってるんだ?」と直美が言うと、
「俺も初めて知った」とイザオも言い、
「幸太も自分で言うまで知らなかったんじゃない?」と亜子姉さんが言った。
駅の名前に含まれている「神」と「保」の文字が、保険証を持った神様を呼び出したのだ。
表参道駅へ向かう半蔵門線の神保町駅の次は「九段下」駅で、保険証を作った神様が主人公のまま幸太は話を進めた。
「その神様が階段から足を踏み外して九段下まで落ちるんだけど、保険証を持っていて良かったって話で」
保険証の伏線が生きている。
「で、次が半蔵門駅。元々全蔵門だったのが半分になった半蔵門に向かって、神様が『生きていればもう半分にまた会えますよ』って言うんだ」
「神様のセリフっぽいね」と直美が言うと、
「半蔵門もうれしかっただろね」と亜子姉さんがうなずく。
片割れの門ともう一度会いたいと願う、全蔵門の半分の半蔵門。頭の中で門に目と鼻がつき、キャラクターみたいに表情が動く。
「永田町」駅で神様は「友達の永田さんを待った」が現れず、「青山一丁目」駅では「青い山で採れた豆腐を一丁食べた」ところ、「おいしくて目が飛び出しました」。
「豆腐」にオムライスを平らげた結衣ちゃんと優亜が同時に反応し、目をキョロキョロさせる。
「豆腐食べる? あるよ」
直美は冷蔵庫へ行き、小さなパック入りの豆腐を取ってくる。幸太の作った話と食卓が緩やかにつながる。
千代田線に乗り換えた「表参道」駅で「本の表紙を作る会に参加した神様は道に迷い、半泣きに」なったが、「明治神宮前」駅では「明るい笑顔でケガを治し、神様のお宮の前を通りました」。
「神様が神様の前を通ったんだ」
「里帰り?」
「お仲間かな」
続く「代々木公園」駅は「代々、木を植えている公園」で、そこにやって来た神様は木のベンチに腰を下ろして、「よし」と言った。隣の「代々木上原」駅では「代々、木を植えている上原さん」に神様は百年ぶりに会うことができ、感謝状を渡した。
感謝状は保険証で、上原さんは「助かります」と言って喜んだ。
「神様の保険証が植樹のお礼になるとは」
「神様と百年ぶりに会った上原さん、百歳超えてるってことだよね? 保険証必要だよ」
代々木上原駅でおばあさんは電車を降り、イザオと幸太も一緒に降りると、寄り道しながら歩いて目黒まで戻って来たという。
「コータすげーよな。作家になれるんじゃね?」とイザオが甥っ子をほめる。
「引き出した孝雄がすごいよ」と亜子姉さんが弟をほめる。
「隣のおばあさんもすごいよね」と直美は言い、その人は幸太にとっての確率1分の1の人だったかもしれないと思う。
「子どもはみんな物語の種を持ってるんだろね。でも、まわりの大人に余裕がないと、種は埋もれたままになっちゃうんだろうな」
亜子姉さんの言葉を聞きながら、直美は優亜に目をやる。優亜の口のまわりはオムライスのケチャップの赤に豆腐の白が重なっている。言葉を発することより食べものを入れることに忙しい優亜の中にもすでに物語の種は宿っているのだろうか。いつかその種が芽吹いて、電車で隣り合った誰かを楽しませる日が来るのだろうか。
直美は自分の中の深いところでも物語の種が膨らむような気がしてくる。色とりどりのその種がパーティークラッカーみたいに弾けるのを想像する。
大人も種を秘めていて、芽吹くときを待っている。
次回11月11日に田賀麻希(45)を公開予定です。
編集部note:https://note.com/saita_media
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