第155回 多賀麻希(51)迷路の出口
横浜市営地下鉄の駅の改札で麻希とモリゾウが野間さんと待ち合わせ、10分ほど歩いた住宅街にその家はあった。聞いていた通りの角地にあり、聞いていた以上に大きかった。建物は2階建てで、1階部分だけでも今住んでいるアパートの2倍以上ある。有り余る食材を前に食べきれるのかと心配するように、住みきれるのかと麻希は心配になる。
「遠慮しないでね。家ってね、住んでないと傷むの。傷むっていうか、弱るのかな。誰かが住んでくれたら、家も生き生きするから。いやじゃなかったらベッドも使って。布団なんかも、あるもの使って。もちろん自分たちが使いたいものを使ってくれていい。使わないものは、どっかの部屋を物置きしてくれていいから」
野間さんは張り切っている。家具も電化製品も揃っている。テーブルも棚も冷蔵庫も電子レンジも洗濯機も。何もかも揃い過ぎている。
サッシ戸を開けると、庭が広がっている。そこにチューリップを探したが、なかった。
「あら、終わっちゃってる。息子の家に泊まってて、私も見てなかったの」
野間さんはさほど気にしていない様子だが、麻希は、はぐらかされたような気持ちになった。
野間さんが注文してくれ、お友だちにも贈ってくれたチューリップバッグに2度、元気づけられた。1度目は、この値段でも買ってもらえるんだと自信がついた。2度目は、もっとうれしかった。そんなに気に入ってもらえたんだと。
ちょうど今チューリップが咲いていると言われて、縁を感じたのに。花が終わっていたとしても、野間さんにはもう少しがっかりして欲しかった。
両想いだと思っていたのは、片想いだったのかも。
来るまでは絶対ここに住むと思っていたのに、チューリップで留められていた気持ちがばらけていく。
一階の角地で、庭に面したリビングの奥まで光が射し込むと聞いて、そこにも縁を感じていた。ローン審査を通らなかったマンションの一階の部屋は陽当たりと間取りが気に入っていたから。振られた物件がアップグレードしたみたいだ。マスターが言っていたテンペイが降ってきたと思った。
なのに、現地を見ると、期待したほどはときめかなかった。確かに陽当たりはいいのだが、枝を茂らせ過ぎた木々が目隠しになり、道行く人がアトリエに目を留めて足を止めるという形にはならない。枝を刈ればいいだけかもしれないが、いらないものを押しつけられているような威圧感を覚えてしまう。
リビングも思い描いているアトリエとは飛躍があった。野間さんが住んでいた頃の名残があり過ぎる。以前振られた物件は空室で、がらんとしているから、そこに夢を描けた。家具を動かし、壁に掛かったものを外し、壁紙を貼り替える。今あるものと混ざり合うのではなく、一旦白紙にしなくてはらない。そこまでして、ここにアトリエを構えることにこだわるべきだろうか。家賃がかからないのはありがたいけど、どうしてもここに住まなくてはいけないのだろうか。
留守宅の面倒を頼んでいた息子さんたちが忙しくなったと聞いていた。それで住み込みの人を探すことになり、麻希に声がかかったのだ。チューリップの状態から察すると、何週間もほったらかしにされているのかもしれない。しおれた花びらはべろんと広がり、葉は茶色くなって、とうもろこしの外側の皮のように垂れている。だらしのない立ち姿が、しぼんだ意志を代弁しているみたいだ。
「ゆっくり見てて。ちょっと出かけてくるから」
麻希の迷いを察したのか、野間さんが麻希とモリゾウを残して出て行った。麻希が玄関の鍵を閉めに行くと、「行っちゃったね」とモリゾウが追いつき、ドアの向こうで門を開け閉めする音が聞こえる頃にはキスが始まっていた。ふたりの靴だけが脱いである、たたきの上で。
引っ越すとお盛んになると新宿三丁目のカフェのマスターが言っていたが、まだ引っ越してないし、どうしようかと揺らぎ始めているのに、人の家で何やってんだろわたしたち。
ドアに背中が当たる。まだ鍵をかけていないことに麻希が気づいて後ろ手で閉めると、モリゾウの大きな手がシャツの中に入ってきた。
そこでチャイムが鳴った。親に見つかった高校生みたいにパッと体を離した。
「キワコちゃん、いる?」
年配の女性の声がした。キワコというのは野間さんのことだろうか。
ドアスコープから外を見る。門の前に野間さんより年上に見える女性が立っている。何度も「キワコちゃん」と呼ぶのでドアを開けると、立ち去りかけたその人が「あら、いたの?」と振り返り、モリゾウを見て、「息子さん?」と言った。
「今度、こちらをお借りして住むことになりまして」
「そうなの?」という目で麻希はモリゾウを見たが、そうでも言わないと、怪しまれる状況だった。
「誰か住んでくださったほうが安心ね」
女性はあっさり納得し、目を細めた。物腰がやわらかく、品のあるおばあちゃんという感じの人だ。
「キワコちゃんが帰ってるって聞いて」
名前を聞くと、「ミエコです」と言い、「また来ます」と歩いて立ち去った。姿勢が良く、歩幅が大きい。顔は70代に見えたが、後ろ姿はもっと若く見える。その背中が小さくなり、角を曲がって見えなくなる。駅へ向かう道だ。野間さんを下の名前で呼ぶのに、息子さんの名前は知らないミエコさん。
キスの熱は冷めてしまい、なんとなくリビングを抜け、庭に面したサッシ戸を開け放ち、へりに並んで腰を下ろした。庭を渡る風が薄手のカーテンを揺らす。
野間さんって、ファーストネームで呼び合う人だっけ。でも、バッグを贈った佐藤さんのことは名字で呼んでいた。スーパーのパートで一緒だったと言っていた。多分、この近くのスーパーだ。そのスーパーでわたしたちは買い物するようになるのだろうか。そこに行けば、佐藤さんがレジを打っているのだろうか。なんだか実感が湧かない。
「この木、よく見るよね。なんだっけ」
モリゾウが見ているのはゴールデンクレストだ。以前、植物図鑑の校正をやったことがあり、名前を覚えた。ほったらかしにされても枯れることなく青々としている。地面にしっかりと根を下ろしているのだろう。わたしはこんなにグラグラしているのに。
「クリスマスツリーにできそうだな」
それはつまり、クリスマスはここに住んでいるということなのだろうか。
「あれ、バラかな」
モリゾウは庭の奥に目をやる。道に面したラティスの前に大ぶりのピンクの花が咲いている。バラは品種があり過ぎて覚えきれない。バラのコサージュを服飾専門学校時代に作ったことを思い出す。少しずつ色の違うレースを重ねたのがユニークだねと教授にほめられた。麻希ではなくケイティが。
「サドの人々口々に、さあ微笑みに中一本」
モリゾウが歌うように言う。
「何それ?」
「バラの漢字の覚え方。サドはサに土。サは草冠」
チューリップの和名、「鬱香草」の「鬱」の字もモリゾウは覚えていた。「キ~カンキ~ ワカンムリ~ コ~メ~ハコヒ チョンチョンチョン♪」と童謡のメロディに合わせて歌っていたっけ。チューリップバッグを作った頃だ。懐かしさと共に胸の奥が痛む。目の前の庭にチューリップは咲いていない。
「サ、土、人、人、口、口……」と口に出しながら麻希は指を動かし、空中で「薔薇」を完成させる。校正の仕事をやっていたときに読み方は覚えたが、書き方は覚えていなかった。バラだと物足りないけど、薔薇は画数が多過ぎる。ほどほどって難しい。
「なんか、迷路みたいだよな。薔薇って」
麻希は思考が迷路になっている。運命だと思った家に、こんなにも心が浮き立たないのはなぜなのだろう。
「どうする?」と麻希はここに住むかどうかを聞いたつもりだったが、
「迷路でも作るか」とモリゾウは右手を前に伸ばし、ぐるっと円を描いた。庭に大きな丸をつけるように。
「ここに住むの、決まりなの?」
「さっき住むって言っちゃったよ?」
モリゾウには何の迷いもない。麻希に起きた引き算は、モリゾウには起きていなかった。しおれたチューリップも、茂り過ぎて目隠しになっている木々も、物が揃い過ぎている家も減点にはならないのだ。
そうだった。電気がつくだけで幸せな人なのだ。わたしの夫は。
次回5月18日に多賀麻希(52)を公開予定です。
編集部note:https://note.com/saita_media
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