第83回 多賀麻希(27)「彼と彼女の不完全燃焼」
「『制服のシンデレラ』って映像化されたんだっけ」
シュークリームを受け止める形になっていた口で麻希は「え?」と聞き返し、「なんで?」と続けて聞いた。
なんで今?
なんでその話?
『制服のシンデレラ』を読み合わせした後、麻希とモリゾウの間で作品が話題にのぼることはなかった。
消したい過去から前の恋人が膨らませた物語を今の恋人にさらけ出す覚悟を決めたら、彼はすでに読んでいた。奇遇だねと驚き合い、こんな話だったねと確かめ合い、それで話は済んだし気も済んだと麻希は思っていたのだが、ひと月ほど経って、モリゾウがそのタイトルを口にしたのだった。
ひまわりの刺繍をあしらった6万円のバッグに買い手がつき、いつものコンビニスイーツではなく、いつか特別にめでたいことがあった日に食べようと目をつけていたパティスリーのシュークリームを奮発した。店の名前が浮き彫りになった金色のシールを爪ではがし、白い紙箱からシュークリームを取り出し、それぞれの手にその重みを受け止め、いざかぶりつこうというタイミングで。
「なんでって、映画かドラマになったのかなって」
「モリゾウ、舞台でやろうって思ってる?」
モリゾウに『制服のシンデレラ』を読んでもらおうと思ったのは、どこかにそんな下心もあったのだが、
「舞台向きのホンじゃないよね。バテン多いし」
モリゾウは否定から入った。
「バテン」は場面転換のことだと麻希は察し、「場転」と脳内で漢字に置き換える。
「元はテレビドラマ脚本だから」と麻希が言うと、
「時代も合わなくなってるし」とモリゾウはさらに否定を重ねた。
「今だったらSNSで写真も動画もすぐ拡散されるし、放火魔の女子高生はもっと早く特定されると思う」
シュー皮からはみ出したカスタードクリームを迎えに行きながら、確かにと麻希はうなずく。ツカサ君が『制服のシンデレラ』を書いてから10年余り経っている。その間にSNSはどんどん影響力を増し、指一本で個人を持ち上げることも突き落とすことも簡単になっている。
10年も経てば、いろんなことが変わる。細胞は入れ替わるし、住んでいるところも仕事も人間関係も変わる。
物語との距離も変わる。『制服のシンデレラ』のヒロイン、女子高生のあかねは麻希がモデルだが、17歳だった麻希は、年々あかねから遠ざかっている。
たった一年でも人は変わる。人生は変わる。モリゾウと出会った日が一緒に暮らし始めた日だが、まだ一年半余りしか経っていない。その短い間に麻希の生活は一変した。食べること。寝ること。買い物すること。一人で済ませていたあれこれをふたりでこなすようになった。
それから、稼ぐこと。
服飾専門学校で身につけた技術が今頃になって花開くとは思っていなかった。モリゾウは麻希を「作家」と呼び、麻希が作るものを「作品」と呼び、その作品に詩のような紹介文をつけ、ひとつ売れるたびにお祝いのシュークリームをふたつ買ってくる。
「ホンを渡されたとき、めろんに言われたんだよ。お前のホンは、はぐらかしてばっかりだから、こういう真正面から向き合ったものをやって欲しいって」
「めろん」はモリゾウの演劇仲間で、去年抜けた「めろんぐらっせ」のことだ。めろんぐらっせがモリゾウに渡した脚本のタイトルは『茜色の空の下で』となっていた。
モリゾウの舞台を麻希は見たことがない。麻希と出会ってからモリゾウは一度も舞台に立っていない。出会った日に渡されたのは終了した公演のチラシで、『寝ぼけ眼のネジを巻け』というタイトルだった。あらすじを聞くと、「互いのネジを巻くけどメタファー」だと言われ、内容をまったく想像できなかった。
「俺に言わせてみれば、あのホンこそはぐらかしてる。ヒロインの心情をすっ飛ばして、女子高生の連続放火魔っていう設定の派手さに逃げてる」
モリゾウの口調が尖っている。めろんぐらっせにもこんな風に感想を伝えたのだろうか。
麻希はツカサ君に代わって傷つきつつ、そこが最終選考で真っ先に落とされたあの脚本の弱さだったんだろうなと納得してしまう。
炎に魅せられたヒロインの女子高生は、警察に捕まることを恐れつつ、放火を繰り返す。だが、真っ赤に燃える夕日に背中を押され、両親に付き添われて自首するところで物語は終わる。女子高生が放火を繰り返した衝動は描かれているが、最初に火をつけるに至った気持ちと放火にけじめをつける決意はふわっとさせていて、なんとなく放火を始めて終わらせたようなぬるさがある。
わかっている。ツカサ君だって、わかっている。
でも、モリゾウがツカサ君の脚本にダメ出しをすると、ツカサ君とふたりで物語を育てた時間まで否定された気がして、麻希は肩に力が入ってしまう。そこは今の恋人であっても踏み入ってはいけない場所だ。
「舞台の人って、批評が好きだよね」
明るく嫌味を言って、麻希はシュー皮からあふれそうなクリームを唇と舌で絡め取る。顔を傾け、キスしているような格好になる。モリゾウに当てつけるようにシュークリームにキスを繰り返す。モリゾウの唇と舌にもクリームが絡み、モリゾウの中に消えていく。
「教科書を燃やすってところが肝なのに、そこから逃げてるんだよな」
モリゾウはクリームを吸い取ってかじりやすくなったシュー皮を歯でむしり取りながら、ダメ出しを続ける。
今日はキスにもつれ込まない展開だなと麻希は思う。
今日も、というべきか。
キスが減った。キスが減ると、その続きも減る。こんなもんだろうとも思う。もう40歳なんだし、同級生の多くは誰かに服を脱がされるようなことから遠ざかっているはずだ。自分だって、ついこないだまで縁がなかった。最後の恋人と別れて十数年ぶりにモリゾウとそんなことになって、自分の中にまだ残っていた埋み火のような欲求を掘り当てられた。
困ったことに、それは、モリゾウに満たされるたびに増えるのだ。うるおいを得た乾物が思いがけない量に膨れ上がってしまうように。
だが、モリゾウのほうは、当初の熱に浮かされた時期を過ぎてしまった。以前はシュークリームからキスの流れがセットで、途中から互いのクリームが混じり合っていたが、この頃はそれぞれでシュークリームを食べ切る自己完結スタイルになっている。
落ち着くべきペースに落ち着いたともいえる。いい歳した大人が夏休みの学生みたいに朝から晩まで体を重ねているほうがどうかしている。
大物作品が売れたお祝いのシュークリームを恋人と食べ、収入と承認とシュークリームに満たされる40歳。十分ではないか。これ以上望んだらバチが当たる。
そう自分に言い聞かせるものの、今みたいな些細な違和感の溝は、言葉を重ねるより体を重ねたほうが一瞬で埋まるのにと思ってしまう。
「俺がやるなら、連続放火の設定はやめて、家の裏庭で教科書を燃やしただけにする。いや、燃やさなくてもいいのかもしれない。ヒロインが教科書に火をつけるまでの心の動きとか、それまでにあったこととか言われた言葉を重ねる。リアルな炎は出てこないけど、ヒロインの胸の内では炎が揺らめき続けている……」
モリゾウはブツブツと改訂方針をつぶやいている。ツカサ君のホンをどうしたら良くできるかなんて相談していないのに。
物語としての出来は拙いかもしれないが、麻希が必死で隠してきた過去をツカサ君は世の中に出せる姿に変えてくれたのだ。魔法をかけられたシンデレラみたいに。それでマルを打てたはずだった。
その脚本をモリゾウが認めてくれたら、過去の自分をもう一度抱きしめてもらえることになると考えた自分が甘かった。『制服のシンデレラ』を否定されたら、マルを打った過去が成仏されない浮遊霊のように蘇ってしまう。
「火をつけた後より火をつける前にドラマがあるのに、そこを描いてない。火を扱っているのに不完全燃焼なんだよな」
不完全燃焼。
そこは一致していると麻希は苦笑いし、シュークリームの最後のひと口を自分の中におさめた。
次の物語、 連載小説『漂うわたし』第84回 多賀麻希(28)「『嫉妬してくれてるの?』の魔法」へ。
編集部note:https://note.com/saita_media
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