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連載小説『漂うわたし』 第153回 伊澤直美(51)「思い出せそうで思い出せない人」

カルチャー

 連載小説『漂うわたし』 第153回 伊澤直美(51)「思い出せそうで思い出せない人」

2024.04.20

【前回までのあらすじ】ワーキングマザーの直美は、「いらない!」と言う娘の優亜の寝言で目を覚ます。わがままを言わなくなったが、我慢をさせてしまっているのかもしれない。夫のイザオに相談し、「子どもは大人が思っているより大人で、大人は子どもより子ども」だと話す。優亜にママが足りないのではなく、自分に優亜が足りなかったのだ。

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連載:saita オリジナル連載小説『漂うわたし』

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漂うわたし

第153回 伊澤直美(51)思い出せそうで思い出せない人

その名前は直美が勤める食品会社の試食イベントの申し込み者一覧にあった。

佐藤千佳子

見覚えがあるのは確かなのだが、どこで見たのか思い出せない。何度も見た名前というより何度か見かけた名前のように思う。

行きつけの洋食屋で同期入社のタヌキとミラノ風カツレツを待っているときに「知らない?」と聞くと、「よくある名前だよね」と言われた。

「新聞かネット記事で見たんじゃない? 広告のモニターとか」

確かに、いそうだ。このサプリを飲むようになって調子がいいです、のコメントと顔写真に添えられていそうな名前。ああいうところに出るのは本名だと思っていたが、広告用の仮名をつけていることも多い。実際の愛用者ではなくモデルがモニター役を務めていたりするからだ。同じ顔の人が別々の広告に別々の名前で出ていたり、年齢まで違ったりする。

「なんか、かすってる気がする」
「かすってる? どの辺り?」

そこにミラノ風カツレツとライスが運ばれ、カツレツに取りかかりつつ、謎解きを続ける。

「この人誰だっけってなるの、3パターンあるよね」
「3パターンって?」
「名前と顔が一致しないだけか、その人のことが記憶から落ちてるか、そもそも記憶に残ってなかったか」

今回はどのパターンだろうと直美は思う。出産してから記憶の網の目がどんどん粗くなっている気する。覚えていたことは抜け落ちるし、覚えるべきものもこぼれ落ちる。

タヌキとマトメの結婚パーティーで再会した同期入社女子の顔を見たとき、「シバキ!」は反射的に口から出た。名前の最初のふた文字と最後のひと文字をつなげてあだ名にする同期ルールを手がかりにフルネームも思い出したのだが、「柴田五月」を「柴崎五月」と間違えてしまい、「シバサキって誰?」とシバキに笑われた。

「あれ? なんか近くなってる気がする」
「結婚パーティーには来てないよ、佐藤さんも千佳子さんも」

記憶の奥のほうがくすぐられている。クローバーのドレス。ハーブの花束。優亜の髪飾りにしたカモミールの花……。

四つ葉のクローバ

「やっぱり仕事関係かな」
「取引先が個人で試食イベントに申し込む?」
「だよね」
「ま、私は、名前も顔も覚えるの苦手だけど。相手の顔をあんまり見てないし」
「タヌキに会った相手は覚えてるだろけどね」
「だから悪いことできないんだよね」

印象に残る顔であることをタヌキは否定しない。言われ慣れているから答え慣れている。

柴田だったシバキは結婚して薪谷になった。柴から薪になったのに合わせて体型が変わったと自虐を込めて笑っていたが、幸せ太りだろう。

「名前はうつろうよね」とタヌキが言う。
「うつろうよね」と直美も言う。

「トト」と名前をつけた飼い犬を母が「ぴーちゃん」と呼ぶようになったとき、トトは白い尻尾を振って応じていた。直美は裏切られたような淋しさを覚えたが、ぴーちゃんと呼ばれてもトトはトトだったのだ。「原口さん」と呼ばれ続けていたのが結婚して「伊澤さん」と呼ばれるようになっても返事をするようなものだったのだと今となっては思う。新しい名前ができても元の名前が上書きされて消えるわけではない。濃さが変わるだけだ。

ミラノ風カツレツを直美とタヌキは「いつもの」と呼んでいる。たまには他のメニューに浮気してみようと壁の黒板を見渡すのだが、今日も結局ふたりとも「いつもの」に落ち着いた。

カツレツの皿

タヌキはカツレツのひと切れ目を味わっているが、直美は2切れ目を口に入れたところだ。子どもを産んでからタヌキとのランチ時速の差が広がった。保育園に入れる前、授乳とおむつ替えと睡魔のインターバル耐久走の隙間に食事をねじ込んでいた頃は流し込むように食べていた。その早食いの癖がいまだに抜けない。

噛んで味わうことを忘れると、何を食べたかどころか食事をしたかどうかさえ忘れる。時間に流されると記憶も洗われてしまう。

「パセリ?」

直美はナイフとフォークを止める。いつもはローズマリーやイタリアンパセリが彩りに添えられているが、今日はパセリだ。

パセリの緑。トマトソースの赤。

皿をじっと見つめる千佳子に「イタリア関係?」とタヌキが聞く。

「佐藤千佳子はイタリアって感じじゃないか」
「でもケイティだって田川圭子だし」

少し前にケイティの本名がネットで流れた。脱税を摘発され、追徴課税を請求されたのだ。主要メディアは取り上げていなかったが、ネットニュースが書き立てた。ケイティのオンラインサロンビジネスのやり口が問題になり、起業セミナーに数百万円をつぎ込んだけど中身がスカスカの詐欺だったという告発が相次ぎ、ひまわりバッグが原価千円の粗悪品でありデザインも模倣だと指摘され、ケイティのやることなら何でも叩いて良いという空気が出来上がっていた。

田川圭子

原口直美以上に地味だが、いっそ新鮮だ。ケイティという名前を得て、田川圭子では得られなかった自信や自己肯定感が生まれたのではないか。名前は呪いにもなるしおまじないにもなる。

ネットで本名を隠したいとき、直美はステファニーと名乗っている。直美では言えないことがステファニーだと言えたりする。直美の直、ストレートの語感からつけた名前。本名を全否定するのではなくイニシャルで呼ばせるケイティとは案外気が合うかもしれない。

ひまわりバッグ

「OKTって言ってた人たち、どうしてるんだろね」

とっくに過去のものというようにタヌキが言い、「そういやハラミ、ケイティのブランドの名前は覚えてたよね?」と思い出した。

makimakimorizo

一時期、一日に何度も検索ボックスに打ち込んだ名前。打ち込んですらいない。mを押したら予測変換で最後まで出るようになっていた。

イザオの姉の代理で購入し、自宅に届けてもらって預かっていたひまわりバッグの模倣品が大量に出回り、インフルエンサーのケイティとその取り巻きのことを知った。熱に浮かされてたようにネットを巡回していた。

ケイティのふりまくキラキラに浮かれている人たちが夢から醒めるのを見たかったのだろうか。その願望は叶えられたが、達成感はなかった。メッキだとわかっているものが剥げただけだ。腐るとわかっているみかんにカビが生えたのと変わらない。ふうんという感じだ。

「まあいいじゃん。もうすぐ答え合わせできるんだから」

試食イベントは、20組の募集に対して31組の応募があった。応募多数の場合は抽選と告知していたが、都合が悪くなる人もいるだろうし、応募者全員に案内を送ることになった。佐藤千佳子さんの顔を見たら思い出せるだろうか。

「出そうで出ない。この辺まで来てるんだけど」
「ハラミって、思い詰めると、そのことばっかり考えちゃうとこあるよね。って前にもこんな話、しなかったっけ?」

した。このテーブルで。ミラノ風カツレツを食べながら。

イルミネーションの電球が端から灯っていくように記憶の点と点が一気につながる。あのとき、直美はトマトソースの赤から、タヌキはパセリの緑から、同じ人に辿り着いた。電車の中で言葉を交わした感じのいい母娘。真っ赤なチューリップバッグを持っていた母親は、消費者インタビューでパソコンのモニター越しに会ったときに赤い口紅の印象を残していた。

佐藤千佳子

パセリの花束の人だ。

罫線

次回4月27日に伊澤直美(52)を公開予定です。

編集部note:https://note.com/saita_media
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著者

今井 雅子プロフィール

今井 雅子

脚本家。 テレビ作品に連続テレビ小説「てっぱん」、「昔話法廷」、「おじゃる丸」(以上NHK)。2022年「失恋めし」をamazon primeにて配信。「ミヤコが京都にやって来た!〜ふたりの夏〜」(ABCテレビ)を9月30日より3夜連続で、「束の間の一花」(日本テレビ)を10月期に放送。映画作品に「パコダテ人」、「子ぎつねヘレン」、「嘘八百」シリーズ(第3弾「嘘八百 なにわ夢の陣」2023年1月公開)。出版作品に「わにのだんす」、「ブレストガール!〜女子高生の戦略会議」、「産婆フジヤン〜明日を生きる力をくれる、93歳助産師一代記」、「来れば? ねこ占い屋」、「嘘八百」シリーズ。音声SNSのClubhouseで短編小説「膝枕」の朗読と二次創作をリレー中。故郷大阪府堺市の親善大使も務めている。

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